おすもうさん

はからずして、“おすもうさん”と縁ができた。
教え子の相撲部屋入門が決定したのです。
そこで、おすもうさんの世界をのぞき見た雑感を書き記しておこうと思います。


まずは、彼がスカウトされた理由ですが、ずばり「頭が悪くて、体がデカいから」です。
彼の名誉のために補足しますが、彼だけに限ったことではなく、ほとんどの力士が「頭が悪くて、体がデカい」から相撲取りになったと答えていました。
さらに、自らの意志で相撲取りになった力士などほとんどいないそうで、
入門動機のアンケートをとると、その61%が「周囲のススメ」だそうです。
だから、彼らの実感としては、本人の希望如何に関わらず
「気がついたらここにいたという感じ」らしいです。
失礼な話ですが、一般的な感覚に照らし合わせると、
頭が悪いという短所であってしかるべき性質が、
おすもうさんの場合、一転して入門条件としてカウントされるのです。
そりゃあ、もちろん相撲界だって、イチローや中田のように
頭の良い選手が欲しいに決まっています。
しかしながら、頭が良い子が好きこのんで人前でケツを晒すでしょうか。
そんな子達は、基本的に大学に進学してしまいます。
相撲界は藁にもすがる思いなのです。

このように、相撲界を支えているのは、
「頭が悪いし、デブだから」というものすごく消極的な、後ろめたい動機であり、
(普通の就活で、この調子なら、まず間違いなく内定は取れないでしょう)
結果的に、「いくとかねぇから相撲でいいか」という
相撲をしたいからではなく、相撲しかできない者が集まるのです。
(アンケートで「相撲が好き」と答えたおすもうさんは約半数しかいない)


そんな彼らが集まっているだけあって、相撲部屋はよく言えば、「呑気」な、悪く言えば、非常にゆる〜い空気が充満しています。
稽古は午前中のみで、目前で見ていると、厳しさよりけだるさに襲われる。
昼からはすることがないので、昼寝をしたら、
ゲームをしたり、漫画を読んだり、各自おもいおもいに時間を過ごしている。
そして、食う。晩飯の後に、また、食う。寝る前に、これでもかと食う。
つまり、寝る、稽古、寝る、遊ぶ、食う、食う、食うという1日を過ごすのです。
確かに、これならば、知性はいらない。
というより、なまじっかな知性は邪魔だろう。
(こんな生活をしていて品格を求めるのは、正直酷である)

これだけゆるい入門条件と労働条件にもかかわらず、
リクルート活動に苦戦する相撲部屋にとって、
一番恐ろしいのは、やはり苦労して獲得した弟子に部屋をやめられることです。
そのため、ただでさえゆるい規律は、拍車をかけて、ゆるさを増す。
本来ならば親方の実績や部屋の伝統や所属力士の番付などが、
各部屋のアピールポイントとなってしかるべきはずだが、
そんなのおかいなしで、最優先項目は”優しい”かどうかなのです。
親方は優しいか、先輩は優しいか、後援会の人たちは優しいか、
優しさのない相撲部屋はもう生き残れないといっても過言ではありません。
ためしに相撲部屋のホームページをご覧になってください。
これでもかと言わんばかりの優しさアピールに目がくらむことでしょう。
いくら「横綱になれます」と、予備校のような合格保証制度を設けても、相撲部屋には人は集まらない。
強くなったり、上手くなることは二の次で、居心地の良さがあって初めて相撲部屋は成り立つのです。


それは、強くならなくてもクビにならないこととも関係しているのだと思います。
プロ野球ならば2軍を長くても5年でクビになる)
そもそも相撲の起源は、『古事記』・『日本書紀』に求めることができ、
さらに有史以前に、おそらく太古のどこかで、言葉の通じない異族同士が出会ったときに遡るのだと思う。
そのときに、ふたりの男が裸形となって、柏手を打ち、大地を踏み(四股とは、地面の下にある「醜(しこ)」を踏みつけて、お祓いをした行為に由来します)、「浄め」の儀礼を行い、歌を歌い、そしておそらく同じ動作を鏡像的に反復してみせたのである。勝敗を競うのは、擬制的に勝敗を競うことで、鏡像関係がもたらす暴力性を抑制することができるということを古代人が知っていたからである。だから、相撲においては、極端な話、「勝敗はどうでもいい」のである。
そう、おすもうさんは別に強くなくてよいのです。
それは、相撲の戦う者同士がお互いに息を合わせてぶつかり合うという立ち会いの動作でも確認される。
行司は「ハッキョイ(発気揚揚のつまったもの)」と発声する。初めではなく、始まったという追認をしているのです。
相撲は敵と戦う以前に、敵に合わせる。きちんと相手に合わせなければ勝負にならない。
勝ち負けは二次的なもので、相手とシンクロすることこそ、相撲の真髄なのです。
八百長もその副産物といえるでしょう。
八百長は必ず前から相談するものではない。お互いに其処へ気が行く」という具合にほとんど無意識に取引が行われていたらしい。いわゆる“あ・うん”の呼吸というやつです。よく言えば、力士達は八百長ができるほど息が合っていたのであり、それこそ相撲レベルの高さの表れです。
(幕内力士で八百長がほとんど発覚しなかったのは、そういう仕組みだと思います)
だから、相撲の道に通ずる人に話を聞くと、八百長なんて当たり前と答えるのです。
相撲の本義は、勝敗に非ず。


では相撲とは一体何なんでしょうか?


相撲は格闘技ともいえるが、儀式でもある。スポーツのようだが、生活様式でもある。
おそらく、相撲は神事であり、呪術儀礼であり、スポーツであり、武道であり、見世物なのであって、同時にその全部で相撲なのです。
そもそも土俵自体が、神事であり、呪術儀礼の表れです。土俵の上には天井から二本のワイヤーロープで吊り下げられた重さ6トンの「吊り屋根」が設けられていますが、それがは天照大御神を祀る伊勢神宮に倣ったという神明造りです。つまり土俵は神殿に見立てられていて、屋根には「水引幕」と呼ばれる紫色の幕が張り巡らされています。「水」は不浄の塵を祓うとされており、それを北から東、南、西の順に張り巡らすことで、土俵を清めているのです。ですが、このように神事を含んではいるが、それ自体は神事ではありません。(純粋な神事なら星勘定する必要なんてないのですから)
では、スポーツだと考えるとどうか?スポーツの場合はフェアネスが生命線ですが、相撲の場合、同部屋同士の取り組みはない点ですでにアンフェアです。かつての二子山部屋など取り組み以前に3勝以上しているようなものでした。100m走で、一人だけ80mなんてあり得ない。スポーツと言い切るのには無理があります。
じゃあ武道かというと、それも苦しい。武道というのは、「心身の生きる力を高め、潜在可能性を開花させるための技能の体系」であって、このまま太り続けたら、死んでしまう相撲とは明らかに相反するものです。
見世物かというと、確かに土俵入りは完成されたショーであり、絵になります。私も初めて生で見て、感動をおぼえたものです。ですが、あの半ケツ姿を静止画で一日中みせられるのは、正直、勘弁してもらいたい。
やっぱり、相撲は神事であり、呪術儀礼であり、スポーツであり、武道であり、見世物なのです。
こうやってみると、相撲というのは「いろいろな要素が渾然一体となったもの」という以外に説明の方法が見当たりません。
そして、どうやら相撲の魅力とはこの「いろいろな要素が渾然一体となった、なんだかよくわからないもの」という特殊な様態のうちにあるような気がします。
相撲が不調であるのは、この「なんだかよくわからない」性を守り抜くための理論武装ができていないことが最大の理由だと思います。
相撲協会の人間も、おすもうさんも、タニマチさんも、「おすもうとは何?」って聞かれても、誰も理路整然と答えられない。
だから、「相撲とは国技」と定義することで、その疚しさから逃れようとした。
ですが、“国技”という概念も力士修業心得第一条で「相撲は日本の国技と称されていることを忘れないこと」とあるように、国技とされていることを忘れてはならない、自ら国技と言っておらず、あくまでそうされているのである。
つまり、なぜ国技になったのかはわかりませんと白状してしまっているのです。
やっぱり、わからない。

相撲協会の収支や番付編制や取り組みの決定過程などをすべて開示して、「透明性」を担保すれば相撲人気は復活するのか?
部屋制度を廃止して、「最強力士」めざす「ガチンコ・トーナメント」にすれば、相撲人気は復活するのか?
なんだか、どれもダメそうな気がする。
きっと、わかろうとすればするほど、わからなくなるでしょう。
このように、相撲というのは「きちんと話の筋目を通して何かしようとするとうまくゆかなくなる」本質的にゆる〜いシステムなのです。


おすもうさんは、全身全霊で“わからない”を体現しているのです。
つまり、おすもうさんは“わからない”そのものなのです。
目くじら立てずに、ゆる〜く、相撲を楽しみましょう。