街場の漫画論

別に隠していたわけではありませんが、“NO 漫画、NO LIFE.”が私の信条です。
高校時代から始めた漫画誌の立ち読みは、量的にも、質的にも進化を続けながら、今ではすっかり日課として定着しており、漫画なしには生きてゆけぬほどです。(職場の同僚には、毎日立ち読みできるほど読む漫画があることに驚かれます)

当然ながら、狭いわが家の本棚の一画は漫画で占拠されていますが、(本棚1つまるまる漫画を並べるのが私の夢です)初めて買った漫画は、幼稚園の時の『キン肉マン』で、初めて全巻揃えた漫画は、『ドラゴンボール』でした。
小学生高学年になると、生意気にも毎週かかさず少年ジャンプを“土曜日”に八百屋で買っていました。(発売日の月曜日ではなく、土曜日に購入することが少年達にとってのステータスだったので、毎週土曜日には、野菜の代わりに少年ジャンプが店頭に並んでいました)
中学生になると、少年マガジン、少年サンデーに手を広げ、(同じ少年誌のカテゴリーですが、巻頭グラビアがある分少しハードルは上がります)そして卒業する頃には、ヤングマガジンの『行け!稲中卓球部』で抱腹絶倒していました。
高校では、廊下にあったロッカーに『東京大学物語』や『やったろうじゃん』などの成人漫画を常備した秘密の漫画コーナーを設置し、大人の階段をのぼり始めました。
極めつけは、大学時代の漫画喫茶のアルバイトです。
後にも先にも、漫画を二度と読みたくなくないと思うほど漫画を読んだのはこの時だけです。
これらの経験を経て、漫画ブラグというマイナー誌にまでレパートリーを広げ、少女漫画以外のジャンルは全て制覇したのです。


その中でも特別な位置を占めるのは、成長期のまっただ中、まるで聖書のように常に傍らにあり、文字通り擦り切れるほど読み込んだ『ドラゴンボール』です。
私の8割は『ドラゴンボール』でできているといっても過言ではありません。
笑いや涙も『ドラゴンボール』とともにあり、週刊連載とアニメの進行具合に毎週ドキドキさせられたものです。(アニメの進行が早すぎて、週刊連載を超える勢いだったので。子どもながらに心配していたのです。だけど、30分ずっとかめはめ波をぶっぱなして時間稼ぎしていました。このようなやりくりを通して、大人の事情というものを学び取りました。)
強さとはどうあるべきかなどの人生の大切なことや世界の構造や学びの妙諦を『ドラゴンボール』から学び、「宇宙の果てには何があるのか」、「死後、人間はどうなるのか」など哲学的な命題について子どもながらに考えたりしたものでした。
ドラゴンボール』は、完全に血肉化しています。
このように『ドラゴンボール』という通過儀礼を経て大人になったのは私だけではなく、『ドラゴンボール』を知らない者はもぐりといっても過言ではないアラサー(30歳前後のおっさん)を、かつての団塊世代に相当する“ドラゴンボール世代”と呼びうることが可能です。
つまり、『ドラゴンボール』は私たち世代のメンタリティに、看破できないほどの教化的な役割を果たしたのです。


ところが、近年大きな地殻変動が生じています。
“ワンピース世代”の台頭です。
かつての『ドラゴンボール』がアイデンティティの形成に果たした役割を一手に引き受け、『ワンピース』は今や新しいバイブルとなりつつあります。
それは、さながらキリスト教の誕生を想起させます。(キリスト教ユダヤ教を母体に、ユダヤ教を批判するなかでつくられました)

両者とも、若者が宝物を探す冒険譚で、これは偶然ではありません。
そうやって何を探す過程で成長する物語こそ、人を成熟に導く力を宿しているのです。
ユダヤ教キリスト教のような宗教は、人はどう生きるべきかを説きますが、この2つの漫画も、人が成熟するために経験しなければならない通過儀礼の一種として機能しているという点を考慮すると、充分に宗教的です。
なぜなら、物語を読むということは、とりもなおさず物語を仮想体験することであり、物語の主人公に自己投影のアバターとして憑依しているからです。
ドラゴンボール世代は“かめはめ波”の練習を風呂でよくしたものですが(きっとワンピース世代は身体をひっぱたりしているはずです)、この習性こそまさに、仮想体験の副作用の表れなのです。
このように、アバターを通して追体験することで知らず知らずのうちにブレイクスルーの装置を体内に植え付けるのであって、まさに人が成長するために必要なロードマップであるバイブルと同種の機能を担っているのです。


だから、この2つのバイブルとも言うべき漫画が伝えようとしているメッセージ(使命)は重複 します。
1つめのメッセージは、「敵というのは、自分がつくり出すものだ」ということです。
そのため自分の強さに応じた敵にしか遭遇しないのです。
子どもながらに、尻尾が生えていた頃の悟空が、ベジータフリーザと遭遇していたら、物語は何のハイライトもなく終わるはずなのに、それでは商業的に採算がとれないし、物語にならないから、そんなことはしないんだと解釈していましたが、そうではないと大人になって気付きました。
自分のレベルに応じた困難が目の前に現れるのです。
いや、正確に言うと、自分のレベルに応じた困難しか目の前に現れないのです。
ワンピースが60巻も超えているのも、同様の理由でしょう。
強くなるには、それ相当の敵と邂逅しなければいけません。
また、正義と悪の垣根が低いのは、その裏返しです。
ドラゴンボール』では、かつての敵だったピッコロ大魔王やベジータやブウは、なくてはならない仲間だし、『ワンピース』でも、敵かと思えた海軍にもルフィーの援助をする輩が現れ、誰が仲間になるのかわからない。
悟空もルフィーも基本的に、千客万来で、敵だの悪だのに全く興味がありません。
それはおそらく、敵と同様に、悪という概念を具象化するのは、自分自身の心象であると強く自覚しているからでしょう。
「オープンマインドであれ」という力強いメッセージが両者から発信され、読者は「門戸を開放する」という心地よく生きる術を獲得するのです。


2つめは、「力とは、定量的なものではない」ということです。
ドラゴンボール』では、一時期能力の数値化をスカウターという道具によって測ろうとしましたが、すぐに意味をなさなくなりました。
「気を解放しろ!」というクリリンの言葉が象徴するように、力は瞬間的なものです。(スーパーサイヤ人が登場するまでは、全身の気をコントロールして瞬間的に増幅する界王拳が、ドラゴンボール史上最高の技でした)
ベジータスカウターに頼るのを辞めてから急激な成長を遂げたように、力を定量的であるという信憑から抜け出さないと強くなれないというメッセージが通奏低音のように息づいています。
『ワンピース』では、スカウターよりもっと低俗的なお金という尺度で、強さを定量化することが行われていますが、この方法も火を見るよりも明らかに破綻しています。(なぜなら、賞金とは過去の行為に対して発生する評価であり、現在は常に過去に先行しているため、現状を正確に測定できないからです)
では、力とは何か?
それは、自分の身体と頭脳をベースにした「とりあえず手元にあるものでやりくりする総合的な能力です。(レヴィ=ストロースはそのありようを「ブリコルール」と呼びました)
気の大きさだけが強さでありません。
筋肉量を増幅させても役に立ちません。
「どうふるまっていいか」についての実定的な指針が示されない真に危機的な状況を生き延びることが強さなのです。
そのような場面に遭遇しても生き延びるには、「どうふるまってよいか」を指示するマニュアルがない状況でも、「どうふるまえばいいか」を先駆的に知ることはできるブリコルールの作法を身につけていることが必要です。
だから、『ドラゴンボール』では、ギニュー隊長のボディチェンジを防ぐために悟空はカエルを投げたり、ベジータは瀕死の状態であっても太陽を作ろうとしたり、ブルマのパンティをウーロンにあげたり、ブリコラージュ満載です。
『ワンピース』でも、ゾロが3本の刀を使いこなそうとしたとき、口を用いるというアクロバシーがみられます。
ヤジロベーやミスターサタンやウソップやナミのような定量的には微弱な力しか有していない、何の役に立ちそうにもないキャラクターでもパーティを守護する決定的な役割を果たすように、これらの事実は「自分自身に備わった資源を最大限活用し、先駆的に知る力を発揮した者こそ強者だ」というメッセージ以外の何ものでもありません。
そして、メッセージを受け取った読者は、全ての知は外部から投入されるものであるという固定観念と縁を切り、自分の身体に宿る力に目を向けることになるのです。


3つめは儀式を大切にするということです。
ドラゴンボール』では、戦いの前に必ず、型をとります。(天下一武道会の時には、合掌して礼までしていました)
このように初動の前にポーズをとって対峙する場面は数え切れないほどありますが、これは戦いに欠かせない儀式です。
『ワンピース』にとっての儀式とは、食事の場面だと思います。
食事とは、共同体を立ち上げる基本の儀礼であり、人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しません。
仲間こそ強さの源である『ワンピース』では、共同体を維持することは至上命題です。
だから、不自然なまでに、何度も、食事のシーンが描かれるのだと思います。
このように、一見強さと何の関係もないように映る「ルーティンを守る」という習慣は命を守る上でも、イノベーションを果たすためにも、実はとってもたいせつなことなのであって、そのルーティンの最たるものが「儀礼」なのです。
なぜなら、ルーティンを守っている人間はそうでない人間にくらべて「いつもと違うこと」の発生を察知する確率が高いからです。(地下鉄サリン事件のとき、毎朝、同じ時間の電車の、同じ車両に乗って通勤しているOLが、見たことのない不審な風体の男たちが乗り合わせているのを見て、なんだか気分が悪くなって途中下車し、難を逃れた、という故事がありますが、ルーティンの手柄です)
また、決められた型を型通りに演じてみせるためには、場を構成する人間関係の序列や位階、自分がそこで果たすべき機能を見きわめ、用いるべき語詞、声の音質、身体操作などを適切に選択することが必要であり、そのためには長期にわたる訓練と人間観察が不可欠なので、型を使う能力とは、つまるところ強さなのです。
一見、型破りに見える悟空やルフィーが、「礼儀正しくあれ」というメッセージを発信している矛盾に対する葛藤が読者を成熟へ導くのです。



こうした重厚なメッセージが輻輳する一方で、世代間ギャップを生む大きな要因となる相違点も、両者の間に横たわっています。
1つめは、キャラクターの成長過程です。
ドラゴンボール』では、成長過程が明解です。
ベジータの「サイヤ人は死の淵から蘇ると、強くなる」という台詞は、言い得て妙です。
そこには、人は限界を超えたときに成長するという哲学がはっきりと示されています。
そして、限界を超えるための最も強いエネルギーは、怒りであると。
この哲学を身体化すると、自分を追い込むことで強くなるというメンタリティが形成されます。
一方の『ワンピース』では、その成長過程がわからないのです。
大飯を食っているだけで修業している様子も全くみられない、いつのまにか強くなっているという観が抜けないのです。
ただし、仲間のことを想う、仲間と信頼によって結びつけられているという事実が驚異的な身体能力をもたらすという哲学はしみ出ている。
それは、ルフィーの「おれは剣術を使えェんだコノヤロー!!!航海術も持ってねぇし!!!料理もつくねェし!!ウソもつけねぇ!!おれは助けてもらわねぇと生きていけねぇ自信がある」という言葉に象徴されている。
ルフィーのブレイクスルーは危機的状況にある仲間を救うための無我夢中の活動のうちで達成されているのです。(今の子ども達が、特に強い絆があるわけでもないのに、仲間意識が強いのはワンピース』とは無関係ではないと思います)
この成長過程の違いは、平時には露見しませんが、緊急時には、まるで別人種のような観を呈します。


2つめは、敗北したときのリスクを考える必要があります。
ドラゴンボール』の場合、リスクは地球滅亡です。地球を守るために戦っています。
『ワンピース』の場合、仲間を失うことです。仲間が全滅したら物語は終わります。
ルフィーが「一人を失うことは、ほとんど世界をうしなうことと等しい」と言っているいますが、その世界観の大小が、公共性の大小に繋がる可能性が極めて高いと私は考えています。
ドラゴンボール』では、自分たちのことを理解してくれないどころか、非難する地球人のために、命を投げ出して戦っています。
ところが、『ワンピース』では手の届く仲間さえ守れればいい。
子ども達が大人になったとき、世界に対してどう関与するか、という問題は倫理観に直結します。
私のような人間ばかりの世界で暮らしても平気であるように自己形成すること、それが倫理の究極的な要請ですが、世の中が自分のような人間ばかりであったらたいへん住みにくくなるという呪いはモラルハザードを招きます。
今自分がいる場所そのものが来るべき社会の先駆的形態であると確信した桃源郷を創造する。
そのためには意識の射程圏をはるか遠くまで広げておく必要があります。
だって、仲間でなかったという理由で死んでしまうのは嫌ですものね。
地球人なら無条件に救われるドラゴンボール的世界の方が、サスティナブルで信頼にたる倫理的な社会といえるのではないでしょうか。


3つめは、集団の構成要員です。
『ワンピース』のパーティは、基本的に同年齢集団です。
無時間モデルの同年齢集団に支配的な原理はノリです。
これでは、成熟のロールモデルがないため、成長には限界があります。
ドラゴンボール』では、悟空、その子の悟飯、そして悟飯と親子ほど年の離れた悟天、さらには悟空のアドバイザーには、亀仙人、カリン様、神様、界王様と重層的かつ多様な価値観のうえにパーティが成り立っている。
こういう有時間モデルの集団でこそ公共性は生まれるし、成熟することができる。
というのも、あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負うことがあります。
だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」と考えることができます。
それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならなりません。
一人の人間のなかに老人も幼児も、お兄ちゃんもおばさんも、道学者も卑劣漢も、賢者も愚者も、ごちゃごちゃ併存している人間にのみ、自分みたいな人間ばかりでも世界はけっこうにぎやかで風通しがいいという倫理的で、最高に愉快な生き方が用意されるのです。


『ワンピース』はそういう意味で、ローカリズムに根ざしたつつも、グローバリズムとリンクしているという極めて現代的な世界です。
先にみたとおり、私のワンピース世代の台頭に対する一抹の危惧は、「公共性は担保されるのか」、そこに集約されます。
ですが、官僚主義に陥って硬直したユダヤ教をリニューアルして蘇らせたのは、キリスト教です。
新しい公共性のあり方が示されるやもしれません。
ある人が、「ワンピースがあるから、今の若い子たちは大丈夫」と言っていましたが、いつの時代も公共性を構築するのは個人の主体的な参与です。
このバイブルを読んで育った世代がどんな大人になるかについては、教育者としても、漫画好きとしても、ドラゴンボール世代としても興味深く観察させていただくことにします。(「承前 街場の漫画論」をいつか書く時がくるかもしれません)



ちなみに、私の「漫画オールタイムベスト10」は以下の通りです。
ドラゴンボール
スラムダンク
サンクチュアリ
行け!稲中卓球部
⑤クロカン
BECK
⑦ルーキーズ
奈緒
⑨め組の大悟
サラリーマン金太郎