ヴィパッサナー 〜Something in the Way〜

「この境地に達した時、やっとこの苦行のなかに平静さを取り戻すことができるようになった。」
なんてカッコイイことを言ってみたものの、いまだ背中にはヘタレの象徴であるクッションが挟まれている。
そんなヘタレが何を言おうと全く説得力はなかろう。
ということで、後半戦を迎えたDAY6に意を決してクッションと決別することにした。
恐る恐る、ゆっくりと、補助輪をはずしていく。
足の組み方、クッションの座る位置、背中の角度、手の形など何度も何度もフォームの微調整を図り、大げさではなく決死の覚悟でもっていざ1時間の瞑想に再チャレンジした。

1時間の瞑想は潜水に似ている。
始まってしまえば目を閉じ一切動くことはなく、自分の内なる感覚世界へと、ただひたすら深く深く潜り続ける。
そして、1時間の瞑想の終わりを告げるゴエンカ師のお経が流れると※1、水面に浮上してくるイメージだ。
たった1時間の瞑想なのだが、ハーフマラソンを走ったくらいの疲労感がある。
フルマラソンだと補給しないと走れないが、ハーフマラソンだと補給なしで走れるギリギリの距離だからだ。
だから瞑想直後はいつも、息も絶え絶えに、フラフラの状態になる。※2
次の瞑想に備え、一刻も早く体を回復させねばならないので、その場(道場)にとどまることは決してない。
弱者の部屋と庭でリハビリに励んでは、瞑想。
瞑想しては、弱者の部屋と庭でリハビリ。
この繰り返しである。

実はこのルーティン化こそものすごく重要で、この修行を乗り越えることができたのもこの技術のおかげといっても過言ではない。
修行で何が一番辛いかというと、10日(正確に言うと12日)という暴力的なまでの空白に秩序(意味)を与えなければ、精神が耐えられないということである。
2・3日ならばただの我慢大会で終えることはできただろう。
しかし、10日(正確に言うと12日)という日数は我慢だけで乗り切るには絶望的な数字だ。
そこで無秩序に見える修行をフレームワーク化した。※3
まずは、12日を以下のように大雑把に三分割し、
DAY1〜3「アーナーパーナ」
DAY4〜6「クッション付きヴィパッサナー」
DAY7〜9「クッションなしヴィパッサナー」
(DAY10・11はおまけ)※4
それぞれの修行に意味をもたせるとともに、3日終えるたびに達成感を味わえるようにした。
さらに一日単位でも、同様の方法をとった。
もう一度スケジュールを確認すると、以下のようになっている。

4時〜4時30分 起床
4時30分〜6時30分 個人瞑想
6時30分〜8時 朝食
8時〜9時 グループ瞑想
9時〜11時 個人瞑想
11時〜13時 昼食
13時〜14時30分 個人瞑想
14時30分〜15時30分 グループ瞑想
15時30分〜17時 個人瞑想
17時〜18時 ティータイム
18時〜19時 グループ瞑想
19時〜20時30分 講話
20時30分〜21時 個人瞑想
21時〜21時30分 就寝

このなかで、①8時〜9時・②14時30分〜15時30分・③18時〜19時の3回のグループ瞑想だけは、一切の動作を禁じられる本気の瞑想タイムだ。
逆を言うと、これ以外の時間は基本的に何をしていてもよい。
だから、弱者の部屋は賑わいをみせることになったのだが・・・
だったら、このグループ瞑想をメインイベントにセグメント化しよう。
4時〜9時までを1セット、9時〜15時30分を1セット、15時30分〜19時を1セット、あとはおまけ。※4
1セットの時間が一様ではなく幅はあるが、1日3回の本気の瞑想を乗り越えることができるかどうかが修行の命運を握っているので、ここは内容でセグメント化した。
これが功を奏し、残り日数ではなく本気の瞑想をあと10回といった形で数値化できたことで、時間との戦いではなく自分との戦いにもちこむことできた。
いわゆる長期目標と短期目標を瞑想に取り入れたわけだが、この経験から根性も技術であるということを学んだ。
根性や運動神経やセンスといったものは持って生まれた天賦の才であるかのように考えられているが、決してそうではないことを最近この瞑想を含めいろいろな場面からそう思うようになった。
99%は技術である。
だから訓練すれば身につくということを身をもって知ることできた。

また、救いだったのは、終わりなき痛みとの闘いだった座禅と違って、瞑想は覚醒すれば痛みがなくなる。
あれからなかなか覚醒できないもどかしい日々を過ごしたが、DAY8に再び降りてきた。
この時は、座禅する自分自身のシルエットをダブらせた仏像が、宙に浮き、反転したり、縦横無尽に駆け回った。
さすがにこの時はヤバイと思って、無理矢理覚醒を中断してこちら側の世界に戻ってきたが、このころになるともうやりたい放題だった。
DAY9では、身体からあふれ出す光が仏像の殻をやぶって、部屋中にその光が放出された。
何が起きているのか自分でも全く分からず一抹の不安を感じたが、気持ちいいからやめられない。


そして、ついにその時がきた。
またしても異変を伝える高札の周囲に、黒山の人だかりができた。
聖なる沈黙を解除することを予告するお触れがでたのだ。
正式には”メッタ”と呼ぶらしいが、聖なる沈黙がDAY10の9:30頃に解かれた。
聖なる沈黙は最後まで続くものと思っていたので予想外だったが、聖なる沈黙のまま修行から解放すると、うまく世俗に戻れないというのが理由で、このDAY10とDAY11はその社会復帰のためのリハビリにあてられているらしい。
形の上では、修行は継続しているのだが、もうお祭り騒ぎである。
最後の瞑想の終わりを告げる鐘が鳴り、道場を出ると、最初は恐る恐る、めいめいそれぞれが声を掛け始めた。
おしゃべりタイムのスタートだ。
まずは寝食をともにした同部屋の人たちで自己紹介し、思い出を語り合った。
2時間くらいの休憩時間ノンストップでしゃべりっぱなし。
リーダーの寝言が半端なかった話、ラジャーのサボタージュ※4など10日間に起きた奇行・珍事件や、ゴエンカ師の説法に対するツッコミの嵐で笑いっぱなしの2時間だった。※5
話をしてはいけないと状況が面白さを倍増させていたのだろう。
今思い返すと、しんどさより面白さの方が少しだけ上回っている。
だからか、あんな辛い修行だったのに、脱落者は一人もいなかった。
このメンバーで一緒に修行できて本当に楽しかったと、心の底から思った。

しかし、本当に聞きたいことはそれではない。
神秘体験だ。
本当にあんな感覚は俺だけだったのか。
そんなわけはない。
リベンジだ。
途中、修行を挟みながら、休憩時間ごとに色んな人に質問攻めしていった。
ところがどうしたことか、白い光的なものを感じたという話を聞かない。
痛みがなくなったとか、楽になった程度の話だった。
DAY10のゴエンカ師の説法で白い光的なものを解放しなさいという話があって、その前日にそれを経験していたから、「ふむふむ」と確信を深めていたのだが、よくわからなくなってきた。
後日、親友に話を聞いてみたが、それらしきものは1度経験しただけと言っていた。
ますますよくわからない。

話は尽きない。
DAY10は就寝時間を後ろ倒しして、おしゃべりタイムが延長された。
俺はすでに日課となっていた夜のホットウォター(お湯)をすすりながら、流れ星を見上げていた。
すると、リーダーもそこにきて、一緒に流れ星を追いかけた。
アラフォーのおっさん二人がホットウォター(お湯)をすすりながら、「星がきれいだね」とか言いながら夜空を見上げる姿は面白すぎるでしょ。
しかし、その瞬間はくそ真面目に人生について語り合っているのだ。
何度思い返してもおもしろい。
そして最終日、いつも通り4:30〜6:30までの瞑想が終わると、これで全てのプログラムが終了となる。
預けていた物を返却してもらい、寄付が出来る人は寄付を済ませ、荷造りをし朝食を食べ部屋の掃除と、道場や食堂、キッチンやトイレ、シャワールームに外周りの草むしりまでセンターの大掃除を手伝う。
そうして近くのバス停まで順に送ってもらって、修行は終わりとなる。
あんなに辛くて早く終わることばかり考えていたのに、いざ終わってしまうと、センチメンタルな気持ちになる。
帰りのバスの窓が曇って見えたのは、雨のせいだけではなかった。



※1正確には、スピーカーとゴエンカ師のお経を流すipodを接続するときに「ガ・ガ・ガシィッ」という放送機器特有の音がした時に時間の経過を知った。終わるわずか数分前なのだが、この音をいつも今か今かと待ち構えていた。
※2この時悟ったのは、人は1時間動かないだけで死ぬほど苦しむ生物であるという当たり前のことだった。しかし、機械は動かなくても壊れない。人と機械の違いは、この身体性にある。だからこそ、人は行動し続けてこそ価値がある。とどまってはいけない。
※3マラソンにおける2.195kmのようなもの。ここまで来たら何とかなるから、楽観的に「おまけ」とラベリングした。
※4登場人物は「ヴィパッサナー 〜1日目かと思いきやまさかの1日にカウントされていない初日の記録〜」を参照。
※5やはり、皆同じことを考えるもんだ。女子のかわいい子とか、いつ帰る(けつをまくる)かとか。