原子力さん

フクシマを通り過ぎて、盛岡に到着した。
震災後初めて東北の地に足を踏み入れた。
地面は、いまだに断続的に揺れていた。
今も、東北では東日本大震災は終わっていない。
しかし、海岸線から一山越えるともう別世界で、そこは他の地方都市と何ら変わらない。
幹線道路の両脇を巨大資本のチェーン店の群れが占拠し、駅前のロータリーにはタクシーがたむろし、所々にシャッターの閉まった店舗がある。すでに日常はもどっている。

日常性は取り戻しても、心は揺れ続ける、これは被災地だけでなく、今の日本国民の偽らざる本音を凝縮したスタンスではなかろうか。
比較的震災の影響の小さい関西などでは、地震発生直後からこの立ち位置を維持している。
日常に変化はない。だけれども、未曾有の出来事が東北で起きている。
なのに何もしない、できない自分に対して、疚しさだけが募る。

疚しさを払拭しようと、震災について語ろうとすればするほど、定型的な修辞法でしか語れなくなるジレンマに陥る。
「頑張ろう日本」や「節電」なんて表層的なフレーズを何度繰り返しても、逆に、本質から遠ざかるだけだ。
物事の本質にたどり着く唯一の手段は、自らの違和感を頼りに、いつ寸断されてもおかしくない思考回路を、1つ1つ丁寧に、大胆かつ繊細に、繋げていくことだけだ。
鵺に絡め取られる前に、底なし沼に埋もれる前に、私たちは乾坤一擲で自らの思考をすくとらなければならない。



違和感は、日常で微量に沈殿していき、ふとした折に突然火花を散らす。
まるで旧石器時代の頃のように、石と石を打ち合って、火花を起こすようなものだ。
私の場合、あるTV番組が1つのトリガーだった。
そのTV番組は、節電の必要性を強調し、その方策として、自家発電を提案していた。
発電機に連結したペダルを漕ぎながら仕事をし、蓄電する。
約半日程度の充電で、携帯電話を1時間を使用できる電力が確保されるらしい。

こうした考え方が、原発を必要とさせたスキームそのものであるにもかかわらず、現在のライフスタイルを自明のこととして、内省は一切行われない。
携帯電話を持つのをやめればよいというストレートな答えも用意されてしかるべきなのに、その選択肢は初めから排除されていた。
それは、もちろん、そこに利益があるからだ。
問題以上に、儲けがあるから、大人達は決して手放そうとはしない。
そうした会社の収益を何をおいても優先的に保身しようとした人たちが、被害を拡大させた。
だから、私たちは利権をむさぼる電力会社を非難し、政府を非難する。
それは当然のことであり、必要なことだ。
しかし同時に、私たちは自らをも告発しなくてはならない。
それは費用対効果や効率を追求したなれの果てだからだ。
村上春樹の言葉を借りるまでもなく、私たちは被害者であると同時に、加害者でもある。
経済合理主義は日本社会に根深く巣くっており、それは震災の前後で変わりがなく、今回の震災はそれを様々な面でいわば先鋭化させた。
それらのことを厳しく見つめなおさなくてはならない。
そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるだろう。

私たちは被害者であると同時に、加害者でもあるのだ。
この事実は何度強調しても、強調しすぎることはない。


ただし、被害者という面にスポットをあてると、東電の粗雑な設備や安全管理のすさまじい手抜きにはあきれてものもいえない。
福島原発以前には、JC0で起きた事故でウラン溶液をバケツでくみ上げて作業をしていたことが明るみになっている。
今となっては後の祭りだが、それに対して、私たちはもっと嗤うべきだった。
福島原発にしたって、熱くなった格納機をどうやって冷やすかといったら、水をぶっかけるしか策がない。
ハイテクといわれた原発は、その危機管理において小学生以下だった。
しかし、私たちは技術的な難しい言説で煙にまかれ、それを知らなかった。
だから、今わたしたちは何よりも原発のことが知りたいのだろう。
難解な専門用語が飛び交う情報番組でもチャンネルを変えることなく、インターネットや専門書を駆使して、安全・安心を確保しようとするが、
知れば知るほど、私たちは何を知るべきなのかわからなくなる。
シーベルトデシベルなどの原理にしても、どこに放射能が多いとか、肉は危険だとかいう情報を知ったところで、放射能など風向き1つで変わるし、肉は流通ルート次第であり、マネージメントは不可能だという事実に行き着く。
だから、わざわざ原発には「もんじゅ文殊)」だの「ふげん(普賢)」という菩薩名を付け、「神の火」と呼ばれた人智を超えたテクノロジーを呪鎮してきたのだった。
ところが、そうしたテクノロジーの危険性を軽減するための人類学的な知恵は見向きもされなくなり、リスクはコントロールできるという信憑に取り憑かれ、お金で塩漬けにされてしまった。
今の原発には、”処理”ではなく、”供養”という言葉がふさわしい。
誰も口にしなかった言葉を原発に投げかけよう。
「ありがとう。お疲れさま。そして、安らかにお眠り下さい。」