ダイアローグ・イン・ザ・ダーク

鷲田清一さんが『おとなの背中』で、知的障害のある児童のアート作品の制作を支援している知人の話を紹介していた。

夢中になって描いた絵に「すごい」「びっくりした」と声をあげると、その子はそれとは違った絵を次々に描いてくれる。ところが、絵ができて「よく頑張った」「よくできた」と声をかけると、次に同じ絵をまた描く。

さらに給食を例に、深い考察を加えている。

給食で、先生と「今日のごはん、おいしいね」と声をかけあうのでなく、「全部食べられましたね」と先生に完食をほめられたとたん、給食は味気ないものになる。教師が、一緒に食べる人ではなく、食べないでチェックをする人へと足場を移してしまうからだ。

示唆に富んだ話だと思う。
担任が息苦しく、生徒の主体性を奪うガッコウノワールは、この評価者というポジショニングの問題と無関係ではない。
担任でなくなると、とたんに風通しが良くなるのも、評価するポジションから解放されるからだろう。
アートや給食の例にあるように、大人が評価する側に回ると、子どもは成長を止め、大人の求める自分を演じるようになる。
子どもたちは驚くほどにクレバーで、大人の求める自分を演じることなど朝飯前だ。※1
子どもたちが評価されることを前提に行動することで、成長を図るものさしにすぎない評価は管理する道具となる。
その先にあるのが、教師のものさしや学校という制度の枠組に囲い込み、従順さを最上位目的に置いた強制と服従の教育である。
思考停止した教育現場では、評価が手段に過ぎないことは忘れ去られ、評価は武器として振りかざされ、教師は子どもたちを支配することへ疑問を感じなくなる。
 
話は変わるが、先日ダイアログ・イン・ザ・ダーク※2を初体験した。
意外にも暗闇の中で、見えないことによる不自由より見られないことによる自由を感じた。
見えないことにより視覚という制約から解放され、見えないものが見えるようになり、より自由により創造的になることができた。※3
存在しないものを音や匂いを手がかりにしてつくりだすことができる。
例えば、水音が聞こえれば川が流れ、木の匂いからは森林が感じられた。
何もないはずなのに、何でもある。
見られていないから、何でもできる。※4
暗闇の世界が、ものすごく豊かな世界であることに気づかされた。
目が見えないことは不幸だというのは健常者の驕りであって、健常者の方が不幸なのかもしれない。
我々は日常生活の中で常に他者の視線にさらされている。
行動は制限され、目に見えないものにまで忖度する不自由な存在だ。
それが評価となれば視線の強度はさらに増す。
評価という答えのある世界では、正答という従来の価値観に適合することが優先され、主体性や創造性を育むには限界がある。
なぜなら、主体性や創造性は、さまざまな価値観に触れながら、ひとりひとりが自ら価値判断していく多様性のなかで育つからである。
ガッコウノワールには多様性がない。
評価という一方的で、一面的なものさしが多様性を奪っているのならば、いっそのこと評価などやめてしまったらいい。※5
これからの子どもたちは、誰も今まで経験したことのない世界を生きていくことになる。
大人に服従する時代は終わった。
誰にも答えの見えない問題を大人と子どもたちが一緒になって考えることこそ、学校の担うべき役割ではないだろうか。

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暗闇のなかで対話※6するというダイアローグインザダークを通してブレイクスルーを経験した。
遊びの中にこそ学びがある。
そう確信している。
もっと学校に遊びを。
 
※1荒れた学校が激変している要因は、演じる自分という“分人”化がSNSの普及によって当たり前になったからだろう。演じれば傷つくこともないから、教師に反抗することもないし、理解されようとも思わない。学校は壁ですらなくなったので荒れなくなった。
※2完全に光を遮断した”純度100%の暗闇”の中で、視覚以外の様々な感覚やコミュニケーションを楽しむソーシャルエンターテイメント
※3 時間という感覚も喪失し、時間からも解放される。2時間のプログラムだったのだが、2時間経過したことが光のある世界で時計を見るまで信じられなかった。
※4 8人グループで体験したのだが、時間が余ったり自由時間に柔軟体操や筋トレしていた。極端なことを言えば、裸であっても誰も気にしない世界。光のない世界で生きている人が光のある世界生できたとしたら、健常者の作り上げた境界線だらけの世界はずいぶん窮屈に感じるのではないだろうか。
※5評価を放棄するなんて教育の自殺行為に近いアイデアは暗闇の中だからこそ考えることができた。やはり、自由だ。
※6会話と対話を区別し、対話とは異なる価値観などをすり合わせる行為をさす。会話はおしゃべり。