プロレスコミュニケーション論

先日実施した、ある面接の一場面で、私は自責と義憤の入り混じったどうしようもないほどやるせない気持ちになりました。


私「高校生活で、やりたいことはありますか?」

生徒「...僕にはコミュニケーション能力がありません。......社会に出たら、コミュニケーション能力がなければ駄目です。......○○高校で、コミュニケーションできるようになりたいです。」

とか細い、蚊の鳴くのような頼りない声で、途切れ途切れに語った。
面接中、彼は終始このようなトーンとボリュームで、聞き取ることさえ困難でした。
彼の言うとおり、彼のコミュニケーション能力がないのは誰の目から見ても明らかでした。
しかし、わずか15歳の少年が、たかがうまくしゃべれないという理由だけで、明るい未来を展望できず、絶望を抱え込んでしまう社会はまっとうと言えるでしょうか。


経団連のアンケート調査によると、採用の際にもっとも重視するのは「コミュニケーション能力」と答えた企業は、全体の86.6%にのぼります。
主体性60.3%やチャレンジ精神54.5%を引き離してぶっちぎり1位で、驚異的な数字と言えます。
コミュ力を磨かなければ社会的弱者に追い込まれるという彼の不安は的中したといってよいでしょう。
ただ、これはもちろん彼だけの問題ではありません。
コミュニケーション能力が不足していると職に就くことすらできない。
そんな危機感が若年層の間で支配的な空気となっているのです。

しかし、事態はそれだけにとどまりません。
コミュニケーション至上主義は、すでに教育の世界にも蔓延しています。
学校生活でも、スクールカースト上位層は、美形・運動神経がいい・頭がいいなど昔と同じ特質に加えて、友達と一緒にいる場を盛り上げ、その関係をうまく転がしていけるようなコミュニケーション能力が基盤となっています。
いまの教室は、コミュニケーション能力が専制力をもった空間となっています。
引きこもりは、その環境に適応できない生徒の声なき抵抗という側面が強く、このままでは、今後一層増加していくことは間違いありません。※1

大学入試も同様です。
AO入試や推薦入試では、すでにコミュニケーション能力なしには合格できません。
そして、文科省は、この動きを加速する方向に大きく舵をきりました。
いわゆる2020年問題ですが、従来型の知識詰め込み型教育ではなく、思考力、表現力、主体性、協働性などを育てる21世紀型教育が、現中1生から始まります。
この21世紀型教育のキーワードになっているのが、「アクティブ・ラーニング(能動的な学修、以下AL)」という学習法ですが、まさにコミュニケーション能力そのものです。
しかし、中レベル以下の学校で、基本的な知識が身についていないレベルの生徒相手にロジカルシンキングディベートを強要するなど無謀を通り越して自殺行為に等しく、グローバル人材を育てるためのALというかけ声は上位5%くらいのエリートのためのものとなり、コミュニケーション格差は一層著しいものになることは間違いありません。

このように、コミュニケーションがあらゆる場面で至上価値としてもてはやされる一方で、そこからこぼれおちる者も一定数必ず生まれます。
学力や体力のように数値化されるものなら一つの尺度に過ぎませんが、コミュニケーションという目に見えない力を否定されると、人格そのものを否定されたかのように錯覚してしまう。
現に、就職活動に失敗した学生が自己不信に陥る事例を多く耳にします。
コミュニケーション力というたかが一能力に人生が左右されるのが、くやしいかな、現状なのです。


では、なぜコミュニケーション至上主義が拡散したか。
ずばり、グローバル化です。
またかとお思いでしょう。
何でもグローバル化と言っておけば、正解になるじゃないかとお思いでしょう。
しかし、グローバル化というは、経済・社会・思想などあらゆる領域において、これまでの価値観を一遍させるほどの破壊力をもった、まさしく革命だったのです。

グローバル化の進展に比例してコミュニケーション能力が重視されるようになったことは、コミュニケーション能力という言葉が出てくる記事数が2004年から急激に増えたことからもわかります。
グローバル化で価値観の多様化した世界では、相互との異なった価値観を調整しあうために、かつて以上に高いコミュニケーション能力が要求されるからです。
その結果、互いの立場を調整しあうためのコミュニケーション能力だけが、ただ一つの共通の評価基準として残されることになります。
象徴的だったのが、2013年AKB総選挙で指原莉乃が優勝したことです。
自分自身で「自分はかわいくもなしし、ダンスも歌も普通」と言っている彼女が優勝したことこそ、コミュニケーションの勝利です。
彼女が唯一秀でていたのが、バライティなどで培ったコミュニケーション能力だったからです。
「全国の落ちこぼれのみなさん、私の1位をどうか自信に変えてください」と叫ぶ指原の勝利は、社会的弱者を勇気付けた一方で、社会的弱者をさらに深く傷つけることになるでしょう。


グローバル化は冷静構造の崩壊によってもたらされたものですが、その副産物としての大きな物語の喪失も、コミュニケーション至上主義に深く関与しています。
大きな物語の消失とともに、場面ごとに異なった小さな空気が支配力を増しました。※2
価値観が多元化し、多様な生き方が認められるようになった現代では、個性的な存在たることに究極の価値を置く社会的圧力にさらされ、それは社会規範の1つと化しています。
つまり、客観的な評価の物差しがそこに存在しないので、身近にいる具体的な他者からの評価に自己肯定のための根拠を依存するようになり※3、そのために、他者と円滑なコミュニケーションを営む能力が必要となったのです。
コミュニケーションの対象とされるべき共通目標があれば、その技法が多少は下手であっても、目前の切実な必要に迫られてなんとか意思疎通を図ろうとするので、コミュニケーション能力の有無は二の次の関心事となります。
しかし現在は、人々の関心対象が千差万別になったので、コミュニケーションされるべき切実な話題は少なくなっているにもかかわらず、自己肯定感の基盤であるコミュニケーションの場はつねに確保され続けなければなりません。
その結果、コミュニケーションの形式やその能力だけが極端にクローズアップされることになるのです。
しかし、よく考えてみれば、コミュニケーション能力ほど、その評価が他者の反応に依存するものはありません。
コミュニケーションは、その原理的な性質からして、けっして自分の内部で完結するものではなく、つねに他者との関係の総体です。
だからこそ、自分の努力だけでは変えられない強い拘束力をもつのです。


しかし、若者たちはコミュニケーションの本質を正しく理解しているでしょうか。
たぶん「自分の意見をはっきり言う」とかそういう事態をぼんやり想像しているのだろうと思います。
コミュニケーションというのは、語り手が「言いたいことを言う」ためのものではありません。
極論から言えば、コミュニケーションに言葉はいりません。
斎藤孝はコミュニケーションをこう定義しています。※4

「コミュニケーションとは何か。それは端的に言って、意味や感情をやりとりする行為である。一方通行で情報が流れるだけでは、コミュニケーションとは呼ばない。やりとりする相互性があるからコミュニケーションといえる。やりとりするのは、主に意味と感情だ。」
「自分の身の回りの情報を伝え合うだけでは、コミュニケーション力は向上しない。相手の経験世界と自分の経験世界を絡み合わせ、1つの文脈を作り上げていくことで、次の展開が生まれる。それがコミュニケーション力のある対話だ。すなわち、コミュニケーション力とは、一言で言えば、文脈力なのである。」
「コミュニケーションは、響き合いである」


コミュニケーションは、相手との関係しだいで濃密にも希薄にもなりうるものです。
大切なことは、他者との間の文脈です。※5
私は、進路を決定した生徒と必ず握手をするようにしているのですが、そこに言葉はありませんが、多くのことを伝え合う最善の手段であると確信しています。
なぜなら、そこに文脈があるからです。
もはや2人の間に言葉は不要です。
プロレスでもそうです。
リングの上に言葉は必要ありません。
ただ、互いの技をかけあうなかで、互いを認め合い、分かり合う。
試合が終わって互いを称えあい、抱きしめる姿は美しくもあります。
そして、観客もそこに物語を見出します。
プロレスに欠かすことができないのは、アングルという筋書きなのですが、それはまさに文脈です。
その文脈を、レスラー同士と観客が共有できたとき、立派なコミュニケーションが成立し、感動的な試合が生まれます。
優れたレスラーというのは、物語をつむぎだすことのできるレスラーです。
1月4日に開催されるプロレスの祭典レッスルキングダム※6で、圧倒的な人気を誇ったのは、中邑真輔やオカダカズチカでしたが、私にはそれが不満でした。
私も中邑真輔は大好きです。※7
しかし、彼らが輝くことができるのは、棚橋弘至がいるからです。
『神話的クロニクル』でも述べたように、物語の中心は空虚でなければならない。
棚橋弘至という空虚を中心にして物語は形成される。
中邑真輔はキングオブストロングスタイル、オカダカズチカはレインメーカーと我が道を行く求道者ですが、棚橋弘至は「愛してま〜す」と他者を受け入れることを使命とし、何も求めていません。
中心が空虚であるが故に、周りのキャラクターが栄(は)える。
中心が空であることで異なる価値や原理が排除しあわずに、調和を得て相互補完的に働き、共存することを可能にしているからです。
だから、棚橋弘至はどんなレスラーともいい試合ができるのです。
新日本プロレス棚橋弘至がいる限り、未来は明るい。
中邑真輔・AJスタイルズ・飯伏幸太なき新日本プロレスは、棚橋弘至という太陽を決して沈ませてはならない。


プロレスを例に出してしまったため、熱くなってしまいました。
申し訳ありません。
しかし、プロレスが良い例で、空虚な中心の周縁で物語が生まれるのです。
そこには、一般的に想像されるようなコミュニケーションは存在しませんが、深い信頼関係で結ばれています。
このように、コミュニケーションとは文脈を通じて他者と響き合う営みであり、本来、評価する/されるという行為には馴染まないものです。※8
よしんば、評価する/されるなら、そうした観点から評価する/されるべきで、そのためには、長期的な視点が必要不可欠だと私は考えています。
コミュニケーションをビジネスの道具に矮小化させてはならない。
人は誰しも物語なしには生きられない。
コミュニケーションは、その人生を豊かにする物語を紡ぐ営みなのです。

最後に、コミュニケーション能力がないと嘆く受験生に、今ならこう言える。
私にこの文章を書かせた(物語に巻き込んだ)ということは、君にはコミュニケーションは十分あるんだよ、と。




※1正確な調査がないので予想しかできません。
※2KYという言葉が流行ったのもこの頃です。
※3フェイスブックの「イイね!」機能はその象徴。
※4『コミュニケーション力』岩波文庫
※5グレゴリー・ベイトソンは『精神の生態学』の中で、コミュニケーション失調の端的な徴候として「何を言うつもりでその言葉を言っているのかが判定できない」ことを挙げている。 例えば、「今日は何をするつもり?」という問いかけを「昨日みたいなバカな真似は止めてくれよ」という「問責」と取るか、「ねえ、いいことしない?」という性的な「誘い」と取るか、それとも語義通りに「質問」しているのかが判定できないのがコミュニケーション失調の症候である。私たちは、ふだんは前後の文脈や表情やみぶりや声のトーンやあるいは「オーラ」によって、多数の解釈可能性のうちから、もっとも適切な解釈を瞬時のうちに採用している。
※6新日本が開催するビッグマッチの中で、最大規模の興行。通称「1・4(いってんよん)」。
※7好きすぎて、文化祭で中邑真輔のモノマネをしたほどです。
※8おそらく教育改革は評価という問題の前に失敗におわるでしょう。また、採用試験でも、コミュニケーションよりコネや縁故や学歴が重視されるケースが多いことからも、コミュニケーションを評価することの困難さを物語っている。