ガッコウノワール

年の瀬、#忘年会スルーが話題となったが、先立つこと3年、卒業を祝う会スルーを始めた。
本年度も出席するつもりはないので、4回目の卒業を祝う会スルーは確定的である。※1
勘違いしないでほしいのは、職場の飲み会そのものを否定しているわけではなく、げんに忘年会も歓送迎会もスルーしていない。
が、忘年会も歓送迎会も参加しているものの、お酌という風習を忌み嫌う私は、テーブルから一切移動しない。※2
テーブルを離れるということは、そのテーブルのメンバーを軽んじる行為と考えるからだ。
そんな行為が横行しているということは上司に媚びを売るためのイベントに加担しているということであり、スルーしたくなる気持ちがないと言ったら嘘になるが、100歩譲って忘年会や歓送迎会の意義は認める。
しかし、卒業式を祝う会は、一万円近く支払ってしかも3時間近くも、担任の自己満足に付き合うのはどうしても耐えがたい。
往々にして担任のコメントはとにかく長く、聞くに耐えかねるほどつまらないことも理由としてあげられるが、身内ネタも多いため、学年に関わらなかった部外者にとっては、退屈を通り越してもはや苦痛でしかない。
「自分で4,000~5,000円払って上司の話を聞くのはハードルが高い」というのが忘年会スルーの理由として共感されているように、私の場合ももともとは似たような動機だった。
ただ、そうは言っても現場の最前線にいる担任の苦労をねぎらうためには仕方ないと思って我慢してきたが、進路指導部長として仕事するようになって、ある疑念が生じた。
そもそもなぜ担任だけが祝われるのだろう?
学校という組織において、担任という職務はその一部に過ぎないし、この時は担任以上に生徒の進路に関わってきたという自負もあった。
1000歩譲って卒業を祝う会があるなら、教務部をねぎらう会や進路指導部をねぎらう会もあってしかるべきだ。
しかし、当然ながらそんなものはどこにもない。
学校という組織は、良くも悪くも担任に依存しすぎている。
その象徴が、卒業を祝う会という名の担任礼賛の儀式なのだ。
ならば行くのをやめよう。
私なりの意志表明だった。
担任制度に一石を投じると言えば、大げさだが、それぐらいの覚悟はあった。
だから、「何様だ」とか「波風たてるな」とかさんざん非難されたが、ひるむことはなかった。
今になって思えば、それは担任制度そのものに対して反旗を翻す行為であり、とりもなおさず学校文化を否定する言動だったのだから、非難されて当然だ。※3
そりゃ、体裁を取り繕って、自分を押し殺して黙って3時間我慢するほうがよっぽど楽だろう。
しかし、気づいてしまったのだ。
あまりにも当たり前すぎて誰も気づかなかった盲点、いや気づいていたとしてもコトが大きすぎて手出しできなかったガッコウノワール。※4
それこそ、担任制度である。
 

毎年4月、合格発表は少し前に終わったにもかかわらず、学校は悲鳴と歓声と雄叫びが入り混じった狂騒に包まれる。
そう、担任発表である。
誰が担任かによって人生が変わると言っても過言ではない。
それゆえ、担任の当たり外れで騒ぐのは春の風物詩となっている。
この光景こそ担任制度がガッコウノワールたる所以である。
生徒は担任を選べない。
“くじ引き将軍”足利義教もさぞ驚いているだろう。
運が人生を左右するという点において、中世社会のようである。
 
担任制度とは生徒が担任を選べないにもかかわらず、担任は絶対君主として君臨する非対称な関係から成り立っている。
運よく希望の担任に巡り合うこともあれば、ソリの合わない担任があてがわれることもある。
しかし、担任はすべての生徒にとっての担任であろうとする。
極端に言えば、自分の学級の生徒の人生全てを背負っている。
その使命感に正義と善意がトッピングされると、生徒を自分の思い通りに管理する「学級王国」が形成される。
思い通りにできないと不満がたまり、生徒に当たり散らす。
生徒は委縮して先生に合わせる。
そして、さらに生徒を自分の枠の中に囲い込み、自分の思い通りにしようとする。
エスカレートすると、言葉と行動だけでなく、心の中まで変えようとする。
もはやそれは教育ではなく、支配である。
ところが、正義と善意に支えられた行為だから担任に罪悪感は全くない。
「よかれと思ってやっているのだから、感謝こそされど文句言われる筋合いはない」というのが現場の肌感覚で感じ取れるホンネだ。
こうして熱意のある担任ほど、生徒たちの自立を奪い、従順な生徒を量産していくというジレンマに陥る。※5
やっかいなのは、クラスの評価が自分の評価と勘違いしていることだ。
学校文化の中には「担任できて一人前」という、どこにも明文化されていない不文律がある。
やれ、学力が下がったのは担任のせい。
やれ、遅刻するのは担任のせい。
挙句の果てには窓ガラスが割れたのだって担任のせい。
何か事件があると、真っ先に「担任は誰だ」という意識が脳裏をよぎる。※6
あらゆる問題が「あの担任のせい」になってしまい、学校で何か問題がおきたら「あいつが担任だからな」と思ってしまう。
いったん学級王国というフィルターを通ると問題はブラックボックス化され、さらに管理が強化されていく。

このように、担任システムは生徒の全てを1人の担任に委ねることになってしまいがちなため、生徒たちや保護者にとっての学級のよし悪しは、多くの場合、担任にひもづけられる。
学級の中で問題が起きれば、子どもたちや保護者は安易に担任のせいにしたり、また担任の方も自分で問題を抱えこんでしまったりする状況が生まれていく。
自律することを学ばない子どもは、物事がうまくいかなくなると、教師に責任転嫁をする。
勉強が分からなければ「授業が分かりにくい」と言い、忘れ物をしたら「聞いていない」と言い訳をする。
自分では解決できない問題やトラブルに直面すると、うまくいかない原因を自分以外の周りに求め、安易に他人のせいにしてしまう。
その成れの果てが、次の「18歳意識調査」にあらわれている。

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「自分で国や社会を変えられると思う」などという質問に「はい」と答えた人の割合は、日本がダントツの最下位だ。
これまでの教育は、社会に対しての当事者意識を奪っている。
姿勢を正して一斉に正面を向かせるのが教育ではない。
これからの世の中は劇的に変化する。
時代は変わったのにこれまでの通りの教育がまかり通っていてよいのだろうか。
グローバル化した世界で多様な価値観がイノベーションの源とされるのに、学校では画一化されたルールと教育で支配される。
時代が変わった今だからこそ我々を縛りつけている社会通念や古い常識をアンインストールし、アップデートしていくことが必要だろう。
自律した生徒を育てるのが教育の目的であり、担任制度はその手段に過ぎない。
担任であることに自覚的でなければ、教育は成立しない。
社会は変えられる。
最も身近な大人である担任が変われば、教育は変わる。
 
 
 
※1しかもそのうちの2回は進路指導部長という立場であるにもかかわらずスルーした。やんわりと注意されたこともあるが、思いのほかものすごい熱量で反論するので、注意すらされなくなった。ただ、罪悪感もなきにしもあらずなので、去年はオードリーのオールナイトニッポン武道館ライブ、今年は鹿児島マラソンを錦の御旗にして、ことを荒げないよう配慮できるぐらいに大人にはなった。
※2ただし、来る者拒まずなので、お酌しないわけではない。
※3担任制度に教育史史上初のメスを入れた麹町中学校の工藤勇一校長や桜ヶ丘中学の西郷孝彦校長などの改革が知られていない数年前の話ならなおさらだ。
※4ニッポンノワールをもじったものだが、ノワールとはフランス語で黒という意味だが、複合語の形で用いられ、暗部や正体不明の、などの意を表す。つまり、私が作った造語で、学校のガンという意味で用いています。
※5実は担任より部活動の方がよっぽどタチが悪い。
※6担任制度を非難している私でさえ、「先生が担任やったよかったのに」と言われると、優越感でほくそ笑んでしまう。担任という価値観が骨の髄まで染みこんでしまっている。