ポストコロナ

コロナは序章に過ぎず、われわれは今、時代の転換点に立たされている。
コロナ以前・以後の世界は全く異なったものとなり、コロナ以前と同じ世界は戻ってくることは二度とない。
あたかもコロナが未曾有の危機であるかのような錯覚に陥っているが、歴史を紐解くと、時代の転換期には新しい技術の登場とともに疫病や災害が発生することがままある。
歴史を学んだ者ならば、自明のことである。
それがいつかを予想することはできないが、いつかは必ず起きることだけは歴史が物語っている。
 
古くは、飛鳥時代
蘇我氏物部氏が大陸から仏教を受容するかどうかをめぐって激しく対立したことは有名な話だが、実はその陰に麻疹の存在があったことはあまり知られていない。
仏教というと古くさいイメージがあるが逆で、当時仏教は先端科学であった。
蘇我氏は推進派、物部氏は反対派に分かれ、国論を二分することになったが、この構図では物部氏がどうしてもヒールに映ってしまうが、物部氏は仏教を拒否することで大陸からのウイルスを阻止しようとしたという一面もあった。
どちらが正義かなどは立場や見方でいくらでも変わるからどうでもよい。
グローバルな競争力を高めるために仏教を受容しようとした蘇我氏も正義であり、麻疹を阻止しようとした物部氏も正義である。
重要なことは、蘇我氏が勝利したという事実であり、その結果仏教は受容され、仏教なしに日本を語ることなど不可能なまでに日本社会は一変してしまった。
 
同じく、戦国時代。
伝統的権威は失墜し、実力がものをいうこの時代の主役が織田信長であることに異論はなかろう。
その信長を象徴するイノベーションこそ鉄砲である。
鉄砲がなかったら天下統一はあと数十年遅れただろうと言われるほどで、鉄砲によって戦いの概念が変わり、世界は一変した。
一方で、鉄砲より30年以上も前に伝わった厄災がある。
梅毒である。
好色家の豊臣秀吉が梅毒であったことは有名な話だが、皮肉なものである。
鉄砲なしには天下人たり得なかっただろうし、梅毒ゆえに跡継ぎに悩まされ続けた。
そのどちらも西洋人から日本にもたらされたものである。
 
最後は、幕末である。
幕末は武家政権が終焉し、中央集権的な近代国家に転換する、歴史上最大のターニングポイントであるといっても過言ではない。
このときもたらされた技術は、とてもじゃないが1つに絞ることはできない。
産業革命であり、資本主義であり、民主主義であり、日本は別人になった。
そうした変化にあらがう時代のうねりが、攘夷運動や世直し一揆の原因であるかのように説明されがちだが、話はそう簡単ではない。
変化する社会も問題だが、もっと切実な問題がコレラだった。
一説によると、このウイルスによって人口の1%が死に至ったそうである。
コレラをもたらした異国人に対する憎悪が時代を動かした。

以上の三つの事例に共通する背景が、グローバル化である。
疫病は、グローバル化の副産物であり、流行病が日本に侵入した経路と、文明の道が一致していることがをそのことを証明している。
つまり、梅毒が九州から西日本、そして東日本に感染が広がったのと同じルートをたどって鉄砲は伝わっているし、コレラも同じく幕末開港貿易の最大の港である横浜港から全国にオーバーシュートした。

ここまで十分説明できたと思うが、あえて最後に追加したいのが、1995年である。
なぜなら、個人的にはこの年は戦後最大級のエポックメーキングな年だったと考えているからだ。
この年に何があったかは言うまでもない。
阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件といったネガはすぐに思い出されるだろう。
じゃあ、ポジは何かというと、Windows95であり、インターネットだ。
95年を境に、IT化が急速に進展し、今やインターネットのない世界など想像できないまでに社会は変革した。
インターネットはグローバル化そのものなのだから、もはやグローバル化が厄災の背景にあることは疑いようがない。
 
 
21世紀になり、世界はいっそう密接につながっていった。
そして、AIという世界を一変しかねないテクノロジーが誕生した。
コロナはいつ発生しても不思議ではなかった。
東日本大震災はその警告だったのかもしれない。
東日本大震災が多くの人の人生に影響を与えたことはメディアなどを通じて伝え聞くところだったが、関西在住の私にとって、価値観や生き方を語られても鼻白むだけだった。
まだ教師としてよちよち歩きの2年目の頃だったから、無理もない。
ただ目の前の仕事でいっぱいいっぱいで、今思えば東日本大震災は他人事だった。
今回のコロナで、やっと気づかされた。
東日本大震災は、
「何のために生きるのか、どんな社会で生きていきたいのか、おまえには何ができるのか」
といった人生の意味を問いかけていたのだ。
価値観をアップデートしなければならなかったのだ。
東日本大震災を当事者として経験したしまった人は見てしまったから、生き方を変えたのだ。

私事だが、この一年はめちゃくちゃ忙しかった。
休みがないといったら大げさすぎるが、土日のほとんどは、トレーニングしているか、スキルアップの研修や講習に参加していた。
忙しかったが、ゴールも明確で充実していた。
しかし、コロナによって状況が一変した。
ジムは閉鎖し、大会という大会は中止され、研修や講習もオンライン化し、すっかり暇を持て余し、amazonプライム韓国映画を見まくるぐらいしかやることがなくなった。
学校に行っても、基本的に生徒がこないのだから、暇である。
これだけ暇だと、いやがうえにも考えてしまう。
このままでいいのだろうか?
何のために生きるのか?
今コロナで死んでも、悔いのない人生だったと言い切れるだろうか?
コロナによって露呈してしまった。
学校なんてこなくても子どもは成長するということを。
毎日会社に行く必要なんてないということを。
飲み会だって必要ないことを。
今まで慣習だとか、常識で覆い隠してきた労役に意味はないことに気づいてしまった。
世界は一変した。
いい加減、そのことに気づく必要がある。
いつまでも古い価値観にしがみつくのはやめにしよう。
コロナ以後の世界をよりよいものにするためには、時代が変わったことを受け入れるところから始めるしかない。