変わりゆく世界、変わらない教育

卒業式シーズン到来。

前途ある若者たちの門出を祝福するめでたい日のはずですが、年々心穏やかにやり過ごすことができにくくなってきました。
なぜなら、そこに映し出される光景は日本の教育が抱える宿痾そのものだからです。

卒業式が終わると、教員や来賓などの間でこんな感想が飛び交うことがあります。
「いい式だったねぇ」
どうやら卒業式には、「よい卒業式」と「悪い卒業式」があるようです。
教員になりたての頃はあまりよく理解していませんでしたが※1、かれこれ10回以上も経験しているので否が応にもわかるようになりました。
「よい卒業式」とは、個性のかけらも見当たらない、粛々と執り行われる、予定調和の式のことを指します。
そこにいる生徒たちの個体認識は不可能で、まるで『マトリックス』のエージェントのようです。
もちろん、化粧したり髪の毛を加工すれば瞬殺され、拒否しようものなら、なんと式に出る権利が剥奪されます。※2
それほどまでに厳重なセキュリティチェックされる卒業式で何が行われるかというと、今も昔も変わりません。
ほとんどの生徒にとって声を発する場面は、1時間半に及ぶ式を通して呼名のただ1回で、それもたった一言「はい」と返事をするだけです。
見たこともない、何のゆかりがあるのかもよくわからない来賓のおっさんの方が、まだセリフが長いくらいです。
そのわずか一言を除けば、あとは「起立」と指示された時に、間を置かずに立ち上がることしか求められません。
まるで退屈に耐える力を試しているかのようです。※3

何となく「よい式」のイメージはつかめたとは思いますが、念のため「悪い式」の実例も紹介します。
その方が対比によって、より卒業式の本質が浮かび上がってくるからです。
僕の教員人生で大っぴらに「悪い式」という風評がたった卒業式が1度だけあります。
それは、生徒が自主的に合唱した式でした。
自分たちで曲を選び、自分たちで練習して、本番での出来映えも悪くなかった。
生徒たちも自らの卒業に花を添え、充実した表情を浮かべていました。
しかし、職員室では非難の嵐でした。
また、Gacktがジャックしたとある高校の卒業式の評判も、大人の間では芳しくないようでした。
もうお判りでしょう。
良い・悪いは大人の都合で決められたものさしで測られ、子どもたちは管理する対象としか見られていません。
自分たちの理解の範囲内、自分たちがコントロールできるよう、子どもを押さえつけ囲い込みたがる。
教員にとって都合のよいエージェントへと調教できたかどうかが、良い・悪いの基準なのでしょう。
もはや誰が主役なのかは置き去りにされ、式そのものを運営することしか関心が向けられていません。
学校教育における集大成となるセレモニーがこの調子なのだから、日常は押して図るべしというところです。


世の中に目を転じると、Society5.0または第四次産業革命と呼ばれる社会変革に伴い、教育も大転換が求められています。
150年前に開発された、軍人を養成するための、産業革命に適応するための、教育が時代遅れであることはもはや明白です。
教育をアップデートしなければなりません。
しかし、それを阻んでいるのが、卒業式に象徴されるように、まさに当事者たる教師なのです。

よく言われることですが、教育に関しては、だれもが評論家になれます。
べつに教育の専門家でもなければ、教育研究について特別な訓練を受けたわけでもない人でも、こと教育に関しては、いっぱしの評論家ぶって語ることができます。
それは、だれもがみずからが教育を受けた経験をもっているからです。
ところが、教育語りが、その人の個人的な体験や経験を根拠としていて、それが一般化できるものか否かについては、あまり配慮が払われていません。
個々人の教育体験がそれなりに濃厚で、ノスタルジーを呼び起こし、美化されてしまうからです。
体罰が愛のムチとして容認されるのもこうしたロジックによるものです。
しかし、これは何も一般人だけに限った話ではありません。
教育のプロであるはずの教師も陥るピットフォールなのです。
特に成功体験が強ければ強いほど過去の幻想にとりつかれ、現在に盲目になりがちです。
言うまでもない話ですが、教育は過去に向けられた行為ではありません。
子どもの過去をふまえつつ現在に働きかけ、現在に現れてくる変化を寄せ集めて、それを未来へとつなぐ営みです。
教育にはどういう未来に向けて、どんなふうに現在に働きかけるのかという視点が必要となります。
教育者はこれから20年後の時代を見据えて、子どもたちに必要な教育カリキュラムを考えなければなりません。
今の当たり前を教えるのはなく、未来の当たり前をつくっていくのが教育です。
だが、無自覚のうちに、自分が受けた教育を正解と考えてしまう。
本来ならば20年後の未来を判断基準とすべきところを、自身の教育の原点となる数十年以上前の経験を判断基準としてしまうので、理想と現実との間に四半世紀を超えるギャップが生じているのです。
それが、あの代わり映えしない卒業式です。

それぞれがそれぞれの正義をふりかざすことで合意形成が困難になり、調停不能になった先には「前年と同じ」というソリューションしかありません。
特に深刻なのは領土問題です。
教員はみな少なからず、何かしら小さな小さな自分だけの領土にしがみついて生きています。
教科という聖域、部活という聖域、クラスという聖域などなど。
その聖域に他人が土足であがりこもうものなら、どえらいことになります。
合意形成どころの話ではありません。
私も何度も地雷エリアに突入しましたが、人の心ぐらい平気でへし折ってきます。
結局、誰も手だしできなくなり、ブラックボックス化し、今まで通りがまかり通ってしまうのです。

いまや学校は前例踏襲主義に蝕まれ、重篤な状態にあります。
毎年同じ資料が会議にならび、下手すれば、年号や日付さえ変わっていない資料があるくらいです。
目の前の子どもたちは年々変化しているにもかかわらず、学校の方が変わろうとしない。
語弊がありました、変わろうとはしています。
しかし、前例のないことに対しては、デメリットや不安をふくらまし、常套句である「いかがなものか」という言葉でチャレンジャーを追い詰めてきます。
実施する前からリスクばかりを気にして、よいことが1000あっても、悪いことが1つでも想定されるだけで、何も始めることができません。
私たちは「いかがなものか病」と呼んでいますが、当事者意識を欠いた教師が、まさに評論家気取りでマウンティングしてくることによって、変わろうとしている教育の芽が摘まれていくのです。
また、前例踏襲主義は、新しいことをやろうが、やらまいが、給料が変わらない公務員である教員にとって当然の帰結です。
このようにして学校は、小さな縄張りでしか通じない価値観をふりかざす絶対君主たちが跋扈する前近代的な世界から脱却できず、変われずにいます。

しかし、このままの学校教育では犯罪的なまでに生徒のためになりません。
茂木健一郎は、今の子供たちが、今の教育で15年後の社会にでても仕事はないと断言していました。※4
なんせ企業の人事だったら十人中十人が口をそろえていらないと言う「指示待ち人間」を大量生産しているのが今の学校教育だからです。
ひな鳥のように口を空けてピーピー鳴いても、もはや正解という餌は運ばれてきません。

まずは正しい時代認識が必要です。
黒船が来航しているにもかかわらず、いつまでも江戸時代に固執しているようでは、命運尽きたようなものです。※5
現在進行している変革に目をそむけてはなりません。
良くも悪くも時代は巻き戻すことはできないからです。
目を見開き、耳をそばだて、手足を動かし、未来を見つめ続けるのです。
未来志向で、しっかりと先のことを見るのです。
ただし、今までの通りの価値観で、未来を見つめても現実は歪められます。
しっかりと価値を変えないといけない。
価値を変えていないのは、子どもたちではありません。
子どもたちはYouTubeを見ているし、気づいています。
気づいていないのは、大人です。
正確には、気づいていないわけではなく、認めたくないのでしょう。
認めることによって自分がガラパゴス化することを恐れているのかもしれません。
だから、余計に意固地になって、そういう知らないものに好奇心を持てなくなっているし、持とうとしません。
一方で、子どもたちには「チャレンジしろ」「分からないといって諦めるな」と言っておきながら、自分たちは一切チャレンジしない。
私の大嫌いな大人たちです。
学校にはそんな大人があふれています。
だから、変わらないのです。


未来には正解という1つの答えは存在しません。
答えを知らないという点において、教師と生徒との間に差はありません。
もし正解と思っているものがあるとすれば、過去の幻想です。
社会は変わり続け、変わり続ける社会を予測することは困難です。
だから、教師も生徒と一緒に探究するのです。
教員自身が自分の中に巣くう惰性、成功体験、常識をアンラーンして、一緒に学び続けるのです。
変わりゆく世界の中で、変わらない教育を嘆くのではなく、変わり続けることを楽しんでいこうと思う。

 


※1式に対しては特別な感情がある教員がなぜか多い。式などといっても自作自演の張りぼてのようなものであることは、当事者たる教員の方がよくわかっているはずなのに、なぜか認めようとはしない。式ではなく、フェスにする方が時代に合っている。その点において、近畿大学は先見の明がある。
※2北野唯我のブログ「多数決は天才を殺すナイフだ。『共感』は恐ろしい」のエピソードがその最たるもの。
※3子どもたちは卒業式を通じて、社会では退屈に耐えることが大切であると学ぶことでしょう。僕は卒業式はおしっこを我慢する大会だと思ってます。
※4先日、茂木健一郎を講演会で初めてみましたが、ブラウン管の中(表現が古い)とはまるで別人だった。自由奔放で、歯に衣着せぬ言動に最初は驚いたが、すぐに大好きになってしまった。茂木健一郎という才能をメディアという窮屈な箱に閉じ込めることは不可能だ。茂木健一郎とビールは生がオススメです。
※5自分で言っておいて何ですが、この例えは言い得て妙で、現在進行している変革は黒船に匹敵するといっても過言ではありません。ただし、その変化が仮想空間のなかで起きているので目に見えないため、ちょんまげ侍どもは気づきません。