禁煙セラピー

たばこをやめることにした。

そのために、残り一箱ぐらいから、タバコはまずいと念じながら吸い続けた。
つまり、脳をだますのだ。
タバコをうまいと思ったままやめてしまったら、未練が残り、また吸いたくなってしまう。
好きなものをやめるのではく、不快なものを排除したと脳に信じさせることで、タバコに対する感情を倒錯させ、未練を断ち切る。
ただし、急いては事をし損じるので、最初はゆっくりと頭の中のプログラムを組み替え、タバコとの距離を少しずつ遠ざけることから始めた。

こうした地道な刷り込み作業を1週間ほど経て、できるだけ大きな声で、「たばこをやめる」と宣言する。
大きな声といっても、

こういうことではなく、できるだけ身近で、大勢の人々に、はっきりと禁煙宣言をすることだ。
SNSで宣言するのもいいだろう。
つまり、退路を断つのだ。
それが決意となる。
人間は自分に甘いから、1本ぐらいいいかとか、飲み会だけとかいって、タバコを吸ってしまう生き物だ。
だから、周りに宣言することで、吸えない環境を強制的につくってしまうのだ。
もし吸ってしまったら、カッコ悪いし、信用がちょっとだけ低下する。※1
人として評価をされたいというスケベな本能を誰もが持っている。
その本能を呼び覚まして、タバコとのにらめっこに勝利するのだ。


ここまで来たらいよいよ禁煙生活スタートだ。
ここからは誘惑との戦いである。
重要なのは、喫煙は習慣と深く関係しているという科学的事実だ。
つまり、ルーティーンを上書きして、習慣を改ざんしなければならない。
私の場合、朝の珈琲と昼飯と晩酌のときには、タバコは恋人のような存在※2だった。
その恋人に別れを告げ、恋人がいなかった世界に戻らなくてはならない。
忘れるために、タバコを吸っていた1つ1つの場面と場所に赴き、サヨウナラと心の中でつぶやく。
まるで『悼む人』※3のようだ。
だけど、私にとってこの儀式は“とても”※4大切な作業で、タバコとの楽しい思い出を1つ1つ消していくことが、タバコなき世界を生きていくのに必要不可欠なのだ。
恋人を忘れるために、思い出の写真を捨てるようなものだ。※5
こうして習慣を断ち切ることで、誘惑と決別していく。

しかし、そう簡単にタバコを脳裏から完全に消し去ることはできない。
タバコをくわえ、ライターを震えながら握りしめる夢を何度もみるくらい、脳裏にタバコは焼き付いている。
そこで、私がとった作戦がいくつかある。
その1つが、禁煙からの日数をカウントするというシンプルな営みだ。
成功したら手帳の日に○をただつけるだけだ。
いきなりフルマラソンは走れないように、1km、10km、ハーフと積み重ねていくうちに走れるようになる。
タバコも同様に、3日が1週間となり、1週間が2週間、2週間が1カ月と小さな目標を達成していくことで、それが禁煙となる。

私の禁煙法は、このように基本的に理性でタバコの記憶を上書きするというものだが、理性がぶっ飛びそうなほどの激しい衝動に襲われることがある。
思考を経ずに、身体からダイレクトに届く断末魔の叫びのようなもので、タバコの中毒性によってもたらされるのだろう。
小さな積み重ねを一瞬にして吹き飛ばされそうになる。
これが禁煙にとって一番の地獄で、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
私の場合は、嵐が来たらあきらめて、とにかく寝ることが多かった。
しかし、仕事中に寝るわけにもいかないし、ただ黙って待つだけでは芸がないので、身体を苛めることにした。
タバコを吸いたいなんて思えないほどの激しいトレーニングをし、私の身体からタバコの介在する余地をなくした。

それでも、まだ吸いたくなる時はある。
そんな時は、その衝動を擬人化し、ツッコむようにした。
すると、「また、来たよ。あいつ」とか、「このタイミングで来る?」と思えるようになる。
この境地に達することができたら、相方ができたみたいで、禁煙も少しは楽しくなった。


たばこをやめたからといって、素晴らしい人間になるわけではない。
ラソンも特段速くならなかったし、少しだけ懐に余裕ができたが、同時期に花粉症が発症したので、どちらかというと、不健康になった。
でも、少しだけ強くなれた気がする。
それは、困難を楽しむ方法を学んだからかもしれない。


※1 口だけじゃんと思われる。悪友による激しい妨害工作にもあうので注意してください。
※2 いて当たり前、いなくなってはじめてその存在の大きさを知る存在。
※3 天童荒太による長編小説。
※4 “とても”というより、禁煙するうえで“最も”といっても過言ではない。
※5 だから禁煙は人をセンチメンタルにさせる。