教育の原点回帰

「教育の受益者は、親でも、企業でも、本人でもなく、共同体そして未来である」
いつの時代もこれが、教育の原点だったはずです。

学校焼き討ち事件まで引き起こすことになった学制の例をだすまでもなく、もともと教育は親による子どもの強制労働を防止することをねらってはじまったものです。
だから、日本国憲法にも「教育の権利」ではなく、「教育の義務」と規定されています。
親が子どもに教育を受けさせる義務であり、親に対する警告なのです。
子どもを自分の作品のように所有する親、投資という言葉で語られる教育、親の収入に左右される学歴というマスコミの言説などに惑わされて、親を教育の受益者と取り違えてはなりません。
「子どもは親の思ったとおりには育たない」という常識に照らし合わせれば、すぐにわかることです。
また、グローバル化が進んだここ20年ほどを除けば歴史のほとんどは小商いが中心でした。
そうした時代にあっては、企業がグローバル人材だとか、創造性のある人材などを要求することなどありえません。
企業はただ、縁故などをつたってやっとの思いで手に入れた貴重な人財を自助努力あるいは世間様の力を借りて、大切に、時に荒々しく育てるのが一般的でした。
終身雇用だとか、家族経営がスタンダードであった日本的企業においては、企業の業績を伸ばすために教育したというより、親が子にするような返礼を期待しない「純粋な贈与」が展開されていたのです。
ならば贈与されたはずの本人はなぜ教育の受益者ではないのでしょう。
当然ながら、教育によって開発された才能を駆動できるのは、本人だけです。
しかし、本来才能とは外部からの贈り物であり、たまたま今は私の手元に預けられているギフト(gift)なのです。
ホリえもんの例をだすまでもなく、才能を自己利益のために用いると失われるという事例は古今東西枚挙に暇がありません。
「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。
でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。
才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。
他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。

つまり、才能がもたらしたアドバンテージは「私有物」ではない。
本人さえ教育の受益者のポジションを占有できないのです。
天賦の才能を専一的に自己利益の増大に費やした子どもは、最初はそれによって大きな利益を得るが、やがて、ありあまるほどにあるかに見えた才能が枯渇する日を迎えます。
自分は世のため人のために何をなしうるか、という問い(これを”志”と呼ぶこともあります)を切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇を免れることができるのです。
もうお分かりでしょう。
教育によって開発された才能は、利己的ではなく他己的に用いられるときにのみ利益を生み出すリソースとなりうるのです。
他己的とは、水平に拡大すれば共同体を構築し、垂直に拡大すれば未来を構築する振る舞いであり、公共的な市民に欠かさざる資質です。
つまり、真の受益者は共同体であって、未来なのです。
これを逆説的に考えると、教育は共同体や未来からの「贈与」なしには成り立たないということです。
教育ありきの共同体ではなく、共同体ありきの教育であり、本来学校(特に公立学校)は共同体のメンバーとなる市民育成の前衛基地なのです。
なぜなら、社会を担う成熟した公民をきちんと育成してゆかなければ、この共同体そのものが保たないからです。
まるで卵が先か、鶏が先かの議論のようですが、とどのつまり学校教育の目的は、次世代においてこの集団を支える成熟した市民を一定数(全部とはいいません)、継続的に供給していくことであって、それ以外の目的は全て副次的なものに過ぎないということだけは確かです。

最後に、もう一度だけ確認します。
教育の受益者は子ども自身じゃない。
社会そのものが受益者です。
一生懸命子供が勉強してくれて、市民的に成熟してくれると、それで得をするのは社会全体です。
社会全体がそれで救われる。
僕らが助かり、子孫が助かり、共同体が助かる。
だから、子供たちに向かっては「学校に通って、きちんと勉強して、市民的成熟を遂げてください」と強く、強く要請しなければならないのです。

ただし間違っても彼らを学習させるために、「自己利益」を道具にしてはなりません。勉強すると、高い学歴が手に入るよ、いい会社に入れるよ、高い年収が取れるよ、レベルの高い配偶者が手に入るよ・・・というふうに自己利益の追求を動機にして学習意欲を引きだそうとした結果何が起きたか、それについては次回。