LIFE SHIFT

実は8月から週1で水泳教室に通っている。
ジムではなく、れっきとしたコーチのいる水泳専門の教室だ。
水泳教室なんて子どもが通う場所に、40歳を間近に控えたおっさんがなぜ?と皆に驚かれる。
そりゃそうだ。
自分が一番驚いているのだから。

きっかけは、新聞広告だった。
今の場所に住み始めて6年経つが、家から自転車でたった5分のご近所にスイミングスクールがあることを、この時初めて知った。
ましてや、大人向けの水泳教室なるものが存在することなど知る由もなかった。
レッスン4回でひと月6000円、教室以外の時間のプールも使い放題。
ジムに入会することを考えれば、安い。
悪い話ではない。
しかし、そもそも水泳に興味がなければ、そんな新聞広告など目もくれなかっただろう。
新聞広告だってその時はじめて折り込まれたものではなく、何度も我が家に届けられては捨てられていたはずだ。

私の目に水泳教室の新聞広告が飛び込んできた理由、それは、トライアスロンのせいだ。
このブログでもランニング論を書いたことがあるように※1、私はランナーである。
そして、自転車で日本を横断するほどのチャリダーでもある。
ランナーであり、チャリダーでもある者が次に目指すものといえば、トライアスロン以外ない。
”長嶋といえば巨人”くらい自明なことで、トライアスロンへの挑戦はごく自然な流れのように思えた。
しかし、すぐに行動できたわけではなかった。
東野幸治が「行列のできる法律相談所」でトライアスロンを完走したのを見ても、興味こそ湧けども重い腰はピクリとも動かなかった。
ホリエモントライアスロンを完走した時でさえ、お金を理由に、目をそらした。
トライアスロンをいつかは”という想いが頭から離れることは片時もなかったが、人は新しいことを始める、変わることを本能的に恐れる生き物なのだ。
職場で革新派とラベリングされる※2私でさえそうなのだから、惰性とは恐ろしいものだ。
しかしながら、恐ろしいとのんきに構えているわけにもいかない。
大学時代に惰性で生きちゃ駄目っていうことをミスチルから学んできた私にとって※3、それは憂慮すべき非常事態だった。
40歳を間近に控えた今だからこそ、その意味の大きさが分かる。
これは生き方の問題なのだ。

そこからトライアスロンに関する情報を本気で集めはじめた。
ランニングは全く問題なし。
サイクリングは体力的には問題ない。
問題は、装備と水泳。
トライアスロンに参加するには、協会に登録し、ウェアや競技用自転車などを揃えるとなると、総額10万を超える費用がかかる。
トライアスロンはストイックな競技というより、セレブな競技なのだ。
これが二の足を踏む第一の要因。
第二の要因こそ、お待ちかねの水泳だ。
自慢じゃないが、私は誰にも水泳を習わず、完全なる自己流で泳ぎをマスターした。※4
それでも1km程度なら泳げたが、あくまでそれはプールでの話だ。
どれだけジムで泳ごうが、元水泳部でマスター選手権8位の友人から熱血指導をいくら受けても、一歩もトライアスロンに近づけた気がしなかった。
水泳は、ただただ苦しいだけの苦行だった。
ましてや波があり、足が届かない海で泳ぐという行為は、苦行どころか、自殺行為以外のなにものでもない。
振り出しに戻る。
結局いくら走れても、泳げなければトライアスロンは完走できない。
トライアスロン最大の壁といわれるスイムが立ちふさがった。
そもそもラン10km、バイク40kmなんて練習しなくてもできるのに、それに対してスイムは1500mってどんだけハードル高いねん。※5
俺みたいな学校教育でしか水泳を学んだことのない人たちの誰もが耳を疑う話で、ツッコミも冴える。
泳げるという確信をもてなければ、大枚をはたくことはできない。
そもそも生き方どころか生命そのものが危うい。
堂々巡りだ。

途方に暮れていた折、天啓のごとく、あの新聞広告が舞い降りてきたのである。
新聞広告を右手に握りしめ、考えた。
もしここで水泳教室にいかなければ、俺は一生トライアスロンに挑戦することはないだろう。
そして、臨終の際にベットで横たわりながら、妻に「あの時水泳教室に行けばよかった」と嘆くのだ。
その光景がありありと目に浮かんだとき、腹を括れた。
トライアスロンに挑戦する人生とトライアスロンに挑戦しない人生、どちらかを選べと言われたら、俺は、トライアスロンに挑戦する人生を選ぶ。
挑戦せずに、自分の人生に懐疑心を抱いて生きていくことのほうが恐ろしい。
もう一度言う、これはたかが水泳教室に通うかどうかの問題でなく、生き方の問題なのだ。

水泳教室にかけた電話を切った時、人生の歯車が動き出す音がはっきりと聞こえた。
               
最初の1カ月くらいは何も楽しくなかった。
毎週火曜日がくるのが億劫だった。
自己流のフォームが染みついた俺の体にとって、コーチの言うとおりに泳ぐのは窮屈だったし、何よりできない。
俺はトライアスロンに挑戦したいのであって、背泳ぎなんかやってる場合じゃないとひとりごちていた。
しかし、1カ月を過ぎたくらいから自分の中の変化を感じられるようになった。
それは、とても同じ水泳とは思えないくらいのコペルニクス的転回であった。
例えるなら、野球とクリケットぐらい違う。
俺はこれまでの人生で、プールで水泳ではなく、まるで別の競技をやっていた。
これまでの30年近くの時間を返してほしい。

三井寿の名言がピタリとはまる、痛恨の極みだった。
プールで俺の泳ぎを一度でもみたことのあるすべての人に声を大にして言いたい。
なぜ教えてくれなかった?
「あなたがやっていること、それは、水泳ではないよ」と。
「プールの中であなたは一体何をやってるんだい」と。
そうすれば、もっと早く気づくことができたのに。
トゥルーマン・ショー』のジム・キャリーのような気分だ。
知らなかったのはどうやら俺だけだったようだ。

水泳はパワーでやるものだと思っていた。
とにかく足をバタバタし、手を回し続けることが泳ぐことだと思い込んでいた。
今思えば、ただ溺れていただけだ。
恥ずかしい、穴があったら入りたい。
過去に戻って、水泳とはパワーではなく、バランスだよって教えてやりたい。
力を抜いてゆっくりストロークしても、スクリューのように、水を切って推進する。
まるで水の一部になったかのようだ。
そう、水泳は水と同化する営みなのだ。
今まで俺は水と戦っていた。
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
こんな感覚は久しぶりだ。
内田樹の『下流志向』を読んだとき以来かもしれない。
世界が一変した。
何歳になってもこんな経験ができるのだから、やっぱり人生は面白い。

今では正直、トライアスロンという最初の目的はどうでもよくなった。
苦行だった水泳が楽しい。
毎週火曜日が待ち遠しい。
1kmくらい平気で泳げる。
いつの間にかゴールだったトライアスロンが通過点になってしまった。
学ぶってこういうことなんだと再確認した。
今月からは未経験のバタフライに挑戦しているが、できないことが楽しい。
なぜなら、それは自分の世界の中にまだ未開拓な部分が存在していることを発見する行為だからだ。
未開拓な部分は私自身の可能性そのものであり、そこは私の中のブルーオーシャンで学びの宝庫なのだ。
学ぶということは、新しい自分に出会うことだ。
だから楽しい。

教育者の端くれとして、子どもたちに勉強を楽しませることはできているだろうか。
勉強を押し付けていないか。
水泳を楽しむようになってどれだけでも泳げるようになったように、子どもたちも勉強を楽しむことができれば、どれだけでも勉強できるはずだ。
子どもたちに、勉強は楽しいということを経験させることができているだろうか。

いつの間にか教育現場は、偏差値だの、勉強時間だの、実績だの、数字で意味が埋め尽くされるようになった。
楽しいから学ぶ。
それが学びの原点のはずだが、今や見る影もない。
しかし、これからの人生100年時代※6において、教育も従来の価値観では立ち行かなくなることは明白だ。
つまり、いい大学に入り大きな会社に就職することが幸せであると信じ込ませることはもう意味をなさない。
人生が100年に延長されたことで、当たり前だが、学校を卒業してからの人生のほうが長い。
下手したら、定年後の人生のほうが長いのである。
社会が激しく変化し、テクノロジーが目まぐるしく進歩するこれからの時代では学生時代や社会人になりたての頃に学んだ知見はすぐに古びてしまうし、特定のスキルが必要となる業界や仕事が、いつ廃れるかわからない。
もはや好むと好まざるに関係なく、VUCA※7な予測不能の時代を生き抜いていくうえでいくつになっても学び続けることは私たちに課せられた要件なのです。
しかし、こう言っておきながら、私自身はこのような脅迫に違和感というか嫌悪感を抱いてきた。
フリーターになったら生涯賃金が1億円減るから就職しろだの、グローバル化したから英語ができなければならないだの、国公立大学に進学しろだの、枚挙にいとまない。
これでは、子どもたちが勉強したくなるはずがない。
同じ学ぶにしても楽しいから学ぶの方が、健全だし、なにより長続きする。
なにせ我々は常に学び続けなければならないのだ。
なら楽しくなくっちゃ。

それに、水泳教室でなにより驚いたのは、そのメンバーだ。
最長老は83歳の好好爺、それ以外に70代のおばあちゃんとその娘(おそらく50代)の親子、喫茶店のマスター(70代のおばあちゃんをおばあちゃん扱いしているから、おそらく60代。見た目は70代のおばあちゃんと遜色はない)とバラエティーに富んだメンバーである。
そこは、40才を間近に控えたおっさんである私が若者扱いされる稀有なコミュニティなのである。
正直言って、メンバーの泳ぎには進歩がない。
なぜなら泳ぐことが目的ではないからだ。
定年後の有り余った時間を、有意義に使うために泳いでいるのだ。
つまり、学びのコミュニティは、学びだけでなく、定年後の人生に生きがいをも提供する。
そういうコミュニティにどれだけ所属しているかが、これからの人生100年時代においてますます重要になってくるだろう。※8
楽しければいくつになっても学び続けることができる。


めぐりにめぐって、どうやら私は水泳を通じて教育者としての初心を取り戻し、未来とつながることができた。
学校で何十時間残業しても気づくことさえできなかっただろう。
学校から離れ、専門分野以外に取り組むことで価値観が柔軟になる。
はた目には遊んでいるようにしか見えないだろうが、私だってただ楽しいから遊んでいるほど暇じゃない。
当たり前だが、本務でのパフォーマンスをあげるための水泳であり、ランニングであり、トライアスロンなのだ。※9
そんな働き方が理解されるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
でも、そう遠くない未来のはずだ。



※1「ウルトラマラソン(2013.6.9)」「ニューヨーク滞在記(2012.4.2)」「国誉めランニング(2011.12.6)」
※2なぜなら今の肩書は学校改革推進部長
※3『Q』「友とコーヒーと嘘と胃袋」
※4今考えると、泳いでいたのではなく、水中でもがいていただけだった。
※5オリンピックディスタンス
※6100歳まで人生が続くのが当たり前となる時代
※7Volatility(変動性)Uncertainly(不確実性)Complexity(複雑性)Ambiguity(曖昧性)から柱文字をとって作られた、現代のカオス化した経済環境を指す言葉。
※8私は、部活動に何の恩義もないので部活動不要論者だったが、こうしたコミュティとつながる回路として部活動は重要な位置を占めることに気づいてから、部活動100%宣言したところだ。(基本的に私は、部活動は「人生で大切なことは部活動で学んだ」という人が、自分がしてもらったことを次の世代に恩返しするための奨学金制度のようなサービスだと考えている。だから、部活動を教員を問わず恩義を感じているすべての国民で支える公共サービスにすべきという過激な思想の持ち主である。)
※9内田樹も言っているが、素人がお稽古ごとにおいて目指しているのは「できるだけ多彩で多様な失敗を経験することを通じて、おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」ことであり、「技芸そのものに上達することでない」のである。