謙虚なリトルトゥース

私は「オードリーのオールナイトニッポン10周年全国ツアー」をわざわざ日本武道館まで見に行くほどの、正真正銘のリトルトゥース※1である。

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好きが高じて他のメディアの番組や作品などもチェックするようになったが、たまたま若林がMCを務める『激レアさんを連れてきた』という番組を見た時だった。
バックギャモン」※2という競技の世界チャンピオンになった矢澤亜希子さんが特集されていた。
激レアさんだけあって、余命一年と宣告されてから世界チャンピオンに輝き、病気まで克服してしまうという波瀾万丈の人生だったが、その中でも一番印象深かったのがYAZAWAルールでした。
YAZAWAルールとは、彼女が中学1年の時に決めた「毎年最低10個、人生初のことをする」というルールです。
現在は25年継続中ということで、感心する一方で「そういえば、自分はどうだろう?」と気になったので、自分の経験を棚卸ししてみた。

社会人になってからで人生初のこと(順不同)
・水泳教室
・絵画教室
・瞑想
富士登山
・お遍路
・座禅
・中国語を勉強する
・内観
ポケモンGO
ツールドフランス観戦
・アメフト観戦
・プロレス観戦
・マラソン(ウルトラを含む)
・いす1
・ママチャリ4耐
・自転車で日本横断
・落語鑑賞
・クラシック鑑賞
・ラジオ鑑賞
カポエラ
合気道
トライアスロン(予定)


これ以外にも、事故やトラブル、生まれて初めて〇〇食ったみたいな、大なり小なりの人生初は山ほどあったが、数えだしたらきりがないので、仕事と関係のないことで、能動的に取り組んだことだけに絞ったが、我ながら色んなことをやってきたもんだと感心する。
たぶん自分は、性根が飽き性(よく言えば好奇心旺盛)だからできたんだろう。
アルバイトなんて1年続いた試しがないし、引っ越しも何度もしている。
さすがに、サラリーマンを2年半で辞めてしまった時は、長続きしない自分に少しだけ不安を覚えたものだ。
だから、教員が12年も続いているのはとても奇跡的なことで、しかも今は同じ学校に7年も勤務している。※3
よほど水が合ったのでしょう。
今では自分のライフワークは教育にある※4と自覚できるほどになりました。

話が少しそれてしまったが、私が最も関心があるのは、なぜ自分は少なからぬ金額を投資してまで次から次へと色んなことに手をだしているのかという点だ。
まずはっきりと言えるのは、その理由が「ビギナーの憂鬱」※5にある。
簡単に言ってしまえば、新しい世界を獲得し、成長するためだ。
ところが、齢を重ねるとともに違和感が芽生え始めた。
この違和感の正体を考えるヒントが、オードリーのオールナイトニッポンにあったので、以下に、その部分を切り取ってみた。

若林「誰もが成長したいと思うなよ。20代は毎年毎年成長したいと思うけど、もう40歳にもなって成長したいって思ってるって思うなよ」
春日「逆に狭めていきたい。得意なことしかしたくない。」
若林「わかる。わかる。仕事を選びたい。」
春日「生意気だな」

私もオードリーと同年代だが、社会人も長くなってくると、仕事も一通りできるようになり、役職が上がるにつれ、失敗することが許されなくなる。
また、家族もでき、自分のコミュニティも固定化してくる。
すると、人は無意識のうちに自分の殻に閉じこもり、自分の価値観のみ通用する世界を安住の地として選ぶようになっていく。
それがオードリーの「成長したくない」「得意なことしかしたくない」「仕事を選びたい」という会話に凝縮されている。
つまるところ、40代にもなると春日のツッコミに象徴されるように、放っておくと「生意気」化していく。
生意気とはガキの専売特許ではなく、「それだけの存在でもないのに背伸びして偉ぶる」者全てに適用される。
必然的にそういう者は、異なる価値観が支配する場所であっても所かまわず自分の価値観をふりかざすので、どこかで衝突する。
そういうことが続けば、生意気というレッテルが張られ、自分でははがせなくなる。
どの本だったが忘れしまったが、
「40代までに新しいことにチャレンジしていれば、その後、何歳になっても新しいことにチャレンジできる。20代、30代、40代と年齢を重ねていくと、意識しなければ新しいことにチャレンジする機会は減ってくる。40代までに新しいことにチャレンジしなかった人の場合、50代60代で新しいことにチャレンジしようと思ってもできないようだ。」
という記述があった。
違和感の正体はこれだった。
生意気になりたくなかったのだ。

思い返せば、これまでの人生は、成長のプロセスの中で、主観性ばかりを強化してきた気がする。
しかし、40代以降必要なのは、主観性という生意気をデトックスすることの方だったのだ。
これからの人生において必要とされるであろう客観性を、本能的に感じとったのかもしれないと思うと、鳥肌ものだった。

というのも、私が今年から始めた人生初のことがデッサンと瞑想と水泳で、互いに畑違いの分野かと思っていたが、共通点が1つあった。
それは客観性を向上させるための訓練だということだ。
最初デッサンは絵を描くことが目的だと思っていたが、先生からは「観察しろ」と耳にタコができるほど言われ続けた。
見えないものは描けないということをのちに理解したが、芸術は感性であると勘違いしていた私にとって不可解なことだった。
今では、芸術も他の学問と同じで、技術も存在するし、ルールもあることを知ったし、感性はそうした技術トレーニングを積んだのちにやっと気まぐれに顔をだすようなものかもしれないと思うようになった。
つまり、観察という作業を抜きにデッサンは成り立たないし、その作業を通じて客観性は磨かれていく。
瞑想も、何よりも重視されるのは観察で、詳しくは「ヴィパッサナー」に記したので参照にされたい。
でも、水泳だけはなぜ客観性か不思議でしょう。
実は水泳も体力や筋力にまかせて、ただやみくもに練習しても上手くはならない。
正しいフォームが最も重要なスポーツだからだ。
正しいフォームを身につけるためには、理想的な身体運用をイメージ化して、そこに身体の動きを適合させていく作業が必要だ。
その繰り返しと微調整で、正しいフォームを身体に覚えこませていく。
この身体と思考のフィット&ギャップを通じて客観性が磨かれる。※6


いかに自分をなくしていくかが40代以降の普遍的な課題で、それが、たまたまですが、今の時代が要請する(流行的な)ものと重なったと思っています。※7
繰り返しになりますが、激しく変化し続ける世界にアップデートするには、学び続けるしかありません。
最終学歴より最新学習歴で評価されるようになるのもそう遠い未来の話ではなさそうです。
今の時代、新しいことを吸収できなくなったら、致命的です。
火を見るよりも明らかなことですが、生意気さと学びは相性はあまりよくありません。
学ぶために最も大切なことは謙虚さです。
生意気であることの最大の弊害は、この謙虚さを失うことです。
新しいことに挑戦するのは、強制的に「自分がとても無力に感じる」空間に身を投じるためだったのです。
自分の小ささを痛感できれば、人は謙虚になります。
謙虚さを持ち続けるのも、楽ではない。
けれど、案外楽しい。
それは、トゥースとしか言いようがないですね。※8

 

※1リトルトゥースとは「オードリーのオールナイトニッポン」のリスナーのことを指す。私がリトルトゥースになった経緯はブログの「プロレスにハマる」が詳しい。
※2基本的に2人で遊ぶボードゲームの一種で、盤上に配置された双方15個の駒をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。世界最古のボードゲームとされるテーブルズ(英語版)の一種である。出典:フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
※3正直もう飽きている。
※4「ライフワークは教育にある」とややこしい表現をしたのは、学校や教師だけが、ライフワークを実現する唯一の手段ではないからです。私の問題意識はもっとソーシャルなものになりつつあり、またブログで書きたいと思っています。
※5これも、ブログの「プロレスにハマる」が詳しい。
※6しかし、昔取った杵柄で思考停止したまま習慣でできることをやっても客観性は向上しないので要注意。
※7ビジネスの現場でもPDCAが時代遅れとなり、OODAという観察を起点とするフレームが主流となりつつある。
※8オードリーのオールナイトニッポン10周年全国ツアーin日本武道館で若林が繰り出した伝説のスベリ。自分的には名言だと思ったが、本人は日本アカデミー賞に匹敵するスベリだと嘆いていた。