研ぎ澄まされし身体感覚

本格的に走り始めてちょうど1年が経過した。
1年前のちょうど同じ日に、同じ京田辺市民マラソン(10kmの部)からスタートした。
この1年間で僕の何が変わったのだろうか?

10kmのタイムは47分15秒(キロ約4分40秒)。
昨年度の大会は折り返し地点が消失して大会記録がなかった(おかげで10kmの大会なのに12kmほど走らされることになった)ので、タイムを比べることができない(自分でタイムを計ることすら考えていない素人ランナーでもあった)のは残念だが、おそらくタイムは飛躍的に向上した。
小学生の頃、めちゃくちゃ足の速い子がいて、「あんなに速い人は、走っていても楽なんだろうな」と思っていた(実際にリラックスして走っていた。のちに箱根駅伝で活躍した地元の英雄)が、速い人は速いなりに苦しいんだということが分かった。

タイム以上に劇的に変化したのは、身体感覚であった。
タイムは副次的なものにすぎなかった。
もともとタバコを吸っていて、かなり鈍った身体感覚だったに違いないが、錆をそぎ落とすように走れば走るほど研ぎすまされていった。
そして、研ぎ澄まされた五感は、身体全体をレセプターとして機能させ、森羅万象を感じることを可能にした。

まず匂いに敏感になった。
これまで全く気にならなかった匂いが鼻につくようになった。
喫煙者のタバコの匂いはもちろん、弁当の匂い、体臭など。
草の匂いまで感じられるようになると、人間という動物に近い。
一番驚いたのは、ロイヤルゼリーの匂いから、5mほど離れた場所で封を切られたデカビタCを発見したことだった。
なぜそれが分かるかというと、まるで匂いに重量があるように感じられるからです。
無臭状態に比べると有臭の状態というのは、空気に違和感があるのです。
空気の密度が違うと言えばよいのでしょうが、感覚的には、周囲と異なる色彩を帯びた空間が出現したり、一種のオーラのようなものが察知できるようになるのです。

次に、揺れである。
職場が耐震工事をしているので、とにかくよく揺れる。
誰も気にならない揺れであっても、ひとりで感知して、ひとりで慌て、ひとりで安心するのは日常茶飯事となった。
平衡感覚の微妙な誤差も見逃さない精巧なセンサーが搭載されたかのようだ。
また、音も同様である。
足音で誰が歩いているのか特定するのは朝飯前だし、自分自身の身体内部から発する音を聞き分けることができるようになった。
自分の足音や心音でその日の体調はある程度予想できるし、安定的な身体運用を維持するにはリズムが欠かせないことも分かった。
だから、裏返すと自分自身をリズムで騙すことも可能なのです。
レディガガやEXILEのように脳に直接信号をおくり、身体を操作する身体性の極めて高い音楽が近年ヒットしているが、それは自分自身の身体を活性化させることでテンションをあげる極めて効率的な手段だからです。
宗教に音(お経や聖歌など)が欠かせないのも同様の理由です。
自分自身の内部の音に対する感度を高めるということは、霊性を高めることと同義でもあります。

よく「走っている間、何を考えているの?」と聞かれますが、「何も考えていない」と答えています。
厳密には、「足首いてーな」とか、「トイレ、トイレ(焦)」とか、「呼吸が乱れているな」とかいった身体の異議申し立てに耳を傾け、なだめることがランニング中のルーティーンワークであって、「今日の朝焼けはきれいだな」とか「キンモクセイのいい香り」とか外部入力に心を奪われることもしばしばあります。
しかし、基本的には何も考えないようにしています。
というより、長い距離を走っていると、頭が白紙に、脳内が空白で充足されていくのです。
それは、まさに禅が目指す無の境地です。
ランニングとは動く禅であって、霊性が高まるのも無理はないのです。

近代スポーツの中では珍しくマラソンは筋肉の強化をあまりとやかく言いません。(体重が重くなると遅くなるという合理的な理由もある)
外形的な能力の開発ではなく、内在的な身体の開発に主眼をおいている点では、相撲と同じく前近代に属するスポーツといえよう。
だから、マラソンで求められるのはインナーマッスル体幹の強化など、武道が求める身体運用と酷似しているのである。
いま自分が何を求めているのか、誰がどこで私を呼び求めているのか、それを聴き取る力とは、人間性を高めることに他ならない。


1年間で変わったこと、それは「走る」という人間の「生」を実感させてくれる行為を通して、内なる声に耳を傾けるようになったこと。
それは成熟するために必要なたたずまいだと確信している