走れなくなったとき走り続けることができる

僕は、走るときに1つだけ自分に課しているルールがある。


“歩かない”ということだ。


僕は歩くために大会に参加したんじゃない。走るために参加したのだ。
それがルールだ。もし自分が決めたルールを一度でも破ったら、
この先更にたくさんのルールを破ることになるだろうし、
そうなったら、このレースを完走することすらおそらく難しくなる。

だから、どんなに走るスピードが落ちたとしても、歩かない。
もし、歩いてる人がいたら、それは僕ではないと言っても過言ではない。

木津川マラソンのタイムは、5時間という平凡な記録だったが、僕は一度も歩かなかった。
この時、僕の中のルールはプリンシプルとなった気がした。



でも、1度だけ、“走れなくなった”時があった。
(歩いたのではなく、走れなかったのです。ほんとに。)

それは、木津川マラソンの2週間ほど前のことです。
10年ぶりのフルマラソンが、大きなプレッシャーとなって
僕の弱さがにょきにょきと頭をもたげ、
体中のあちこちで”こんにちは”と挨拶を始めたのです。
でも、プレッシャーに打ち勝つには、どんな時でも、
楽天的に、練習するしかありません。
それが唯一の方法であることを、誰かに教えてもらったのか、
自分で学んだのかは忘れてしまいましたが、
幸い僕は知っていました。


そこで、30kmほど走ることにきめました。

ところが、おそらく25キロあたりを過ぎたときに
身体の燃料が尽きたのです。
それはまさに、「からっぽのガソリンタンクを抱えて走り続ける自動車」でした。
まもなく、プスン・プスンと音を立て、エンジンが止まってしまいました。
(ほんとうにそんな音が聞こえたのです。)
とんでもなく苦しくなって、足が動かなくなってしまったのです。
前に進まなくてはという意欲はあるのだが、とにかく身体全体が言うことを聞いてくれない。
それは、まるで車のサイドブレーキをいっぱいに引いたまま、坂道をのぼっているみたいでした。

身体がばらばらになって、今にもほどけてしまいそうだった。
まずはお腹が痛くなり、次に右足、そして左足、膝、肩、腕と
ひととおりの身体の部分が入れ替わり立ち替わり、
立ち上がってそれぞれの痛みを声高に訴えてくるのです。

こうみえても、ルールを守り抜く固い意志はあります。
自転車で日本横断・四国周回するとき、
立ち漕ぎをしないと決めてやりきったことや、
禁煙を約1年続けていることや、
筋トレをアイロン理論に基づいて、約10年継続していることなど、
僕は意志というものを、伊勢神宮の御神木のように、
長い年月をかけて年輪を重ね、太く、強固なものにしてきました。


にもかかわらず、精神は肉体に屈服してしまいました。
それはもう、にべもなく、ぐうの音もでないほど、コテンパンにやられてしまいました。
精神力をなぎ倒すような圧倒的な痛みに加え、
自らを奮い起こすための気力さえも、
人造人間19号のようなものに吸い取られてしまったようでした。
もう何も残っていませんでした。
僕は、絶望的なまでの無力感に打ちひしがれ、
開店前の商店の軒先から、長い間腰をあげることができませんでした。
それは、為す術もなく、ただただ、虚ろでした。



それだけが、ただ1回の例外でした。
基本的に、走ることは気持ちいいものですが、
痛みや苦しみを語ることなしにマラソンを語ることは、
太平洋戦争を抜きに、日本の歴史を語るようなものです。
それではマラソンを語ったことにはならないのです。
だから、僕は、自分の弱さや痛みとどう向き合ってきたか語るのです。



それから、僕は走り続けている。
ただの一度も歩くことなく走り続けている。