4月のある週末、大阪でアースダイブしたのち丸亀で合気道に挑戦する。

アースダイブとは、中沢新一の造語で「土地の記憶を足の裏で感じる」行為を意味するが、アースダイブすると、縄文時代の文脈が現代でも流れていることに気づく。市販の地図をいくら眺めても、逆さにしても、透かしてみても、立ちあがってこない豊潤な物語が、蜃気楼のようにもわもわっと浮かび上がってくる。すると、街の情景は一変し、近代的なビルディングや、無味乾燥なコンビニエンスストアや、けばけばしい飾を施した飲食店に対するいらだちなど、取るに足らないことのように思えてくる。土地の記憶がマインドマップに雪崩れ込む感覚はとても心地よい。長嶋茂雄にとっての巨人軍のように、あるべきものがあるべき場所に収まるという必然性というか、論理性というか、秩序がそこにはある。それらは、“歩く者”に歴史を想起させ、次なる場所を予見させる。無秩序に見える街並みや、一見人工的な都市計画に基づいて造成されたかに見える街並みから、大地の鼓動を通して理路整然と脈々と流れ続ける文脈が聞こてくる。その文脈を読み解くと、身体の奥にあるアンテナのレセプターが作動し、右の角を曲がるとたぶん風俗街だよとか、この坂を登り切ったらお寺があるよとか、古墳がこのへんにあるはず、といった目には見えないものが見えてくる。しかし、それは『1Q84』で天吾や青豆にしか2つの月がみえないように、見えない者にはみえない。いくら豊富な語彙を用いて正確な描写をしようが、アースダイブの魅力は伝わらない。足の裏で感じるしかない。はからずも、天吾が2つの月のある世界を友人の代講講師に説明することを放棄したように、見える者にしか見えない世界がある。それを伝えるために、天吾は「月を見てその端的な特質についてどう思うか」と見えない者に問いかけるしかなかった。つまり、見えない者にいくら説明しても無駄なのだ。実際に、その目で確かめ、足で感じ、経験するしか方法はない。


熱を帯びた足裏は、次なる熱源を求めて翌日瀬戸内海を越え、丸亀の大地にダイブした。ところが、足の裏がおかしい。いや、正確には、足がまるで自分の足で無くなったといったほうが適切だろう。それは、まるで富士の樹海に足を踏み入れた自殺志願者のようであり、棒やバットで頭を固定し、そのまわりをぐるぐると何回転かしてから走っているかのようであり、新橋でしこたま飲んで家路につくサラリーマンの足取りのようであった。足が方向を完全に見失ってしまった。おかしい。問題は、私の身体にあるのか(昨日飲み過ぎたのか)、それとも、合気道の身体運用の方にあるのか、「主体と他者」そのどちらかにある。問題が生じたときは、「どうしたらいい」のかという対症的な問いの前に、「どうしてこのような異変が発生したのか」という原因についての問いが立てられなければならない。私は、その問いの前に立ち尽くすことになった。


こう見えても、私は運動神経はいい方だ。ひととおりのスポーツは無難にこなすことができるし、半年ほど前に実施された球技大会でも、生徒に混じってサッカーをし、得点王を獲得した(生徒からは「大人げない」と激しく非難された)。しかし、合気道はどうも勝手が違うようだ。私の他にも初心者の大部分が、千鳥足で頭をかしげている。内田先生は「なんでこんな簡単なことができないんだろう」と絶句している。滅多にお目にかかれない珍しい光景だ。いい年した大人が、30m四方のレスリングマットの上で取っ組み合いながら、苦悩する。これはおそらく、原因は私にあるのではなく、合気道の身体運用にあるのだろうと、ピンときた。


結論から言えば、現代人の身体運用と武道の身体運用との間にあるズレに原因があった。つまり、私の直観は、半分は正解で、半分は不正解となる。私の方にも、合気道の方にも、両者に原因があったのだ。スポーツとの親和性が極めて高い私の身体運用を便宜的に“スポーツ”と表現すると、武道とスポーツでは、そもそも身体運用が根本的に異なる。私を含め一般的な日本人の歩行スタイルは、右手左足、左手右足の順で身体を動作させる。しかし、武道では、ナンバ走りに象徴されるように、右手右足、左手左足が基本動作である。人間とは“慣れる”生物だ。長年の習慣を、プログラムを修正するように、その場で改変することはできない。右手右足、左手左足の位置取りをするよう、脳から頻繁に命令を出すが、すぐに身体は拒絶する。江戸時代の日本人が現代人を見たら、まるで別人種のように感じるのではないだろうか。身体運用そのものが武道的なるものから遠く隔たってしまった。スポーツ的なる西洋化してしまったのだ。そういえば、剣道部の顧問(有段者)が、驚くほどスポーツ音痴であることに驚いた記憶がある。彼らがスポーツする姿は見ているのも恥ずかしいほど不格好だった。今思えば、それはきっと私と間逆の感覚なのだろう。武道に慣れ親しんだ身体運用がスポーツを拒絶しているのである。武道とスポーツの違い、その第1の原因が身体運用である。


第2の原因は、呼吸である。スポーツにおいては、基本的に息が上がった状態で競技が行われる。サッカーしかり、バスケしかり、枚挙に暇無い。ところが、武道は呼吸がとても穏やかだ。というより、息が上がってしまうことは、致命的なことである。呼吸の乱れが一瞬の隙を生み、無防備状態となるからだ。これも剣道部の顧問に聞いた話だが、相手が呼吸をした瞬間に攻撃をしたら、十中八九一本をとれるそうだ。一方、野球で1死、2死と表現されるように、スポーツは何度でも死ぬことができるミスを前提として設計されている。ところが、武道にとってミスは文字通り致命傷だ。だから、命がけで、それほどまでに呼吸に敏感なのです。そして、そのナイーブさは上述の身体運用へとつながる。そもそも武道は本来、相手を倒すことではなく、自身の身体パフォーマンスを高めることを至上命題としている。合気道を経験して驚いたのは、練習前と練習後で、身体が全く疲れていないことだった。むしろ、身体能力が向上していた(練習終了後、6時間ドライブの帰路についたが、全く疲れを感じなかった)。武道は身体が緊張することを“居着く”といい、極度に嫌う。だから、基本的に武道は力抜きっぱなしである。緊張はストレスを生む。適度なストレスはパフォーマンスを上げるが、過度のストレスはパフォーマンスどころか、生命をも奪う。武道とは、生きることに関わるさまざまな「訴え」を高い精度で感知するための技法なのである。だから、飢餓ベースで身体運用が設計されている。一方のスポーツは、試合後の選手達をみれば一目瞭然のように、息も絶え絶えである。さらには、「スポーツをやって身体を壊す」ということさえ起こりうる。身体感度は下降線をたどる。その成れの果てが、筋肉ムキムキの清原のような選手だ。身体を資本として、それを消費するのがスポーツであり、贈与するのが武道なのです。当然資本主義と親和性の高いのは、スポーツです。スポーツは「勝ち負け」や「数値」や「記録」といったデジタルデータが一次的に重要なエリアであり、「なまもの」としてのアナログな身体には用がない。それは身体「そのもの」ではなく、身体の「出入力」を優先的に配慮することの必然である。スポーツが隆盛を極める現状の背景にはこんな問題も横たわっているのです。武道が「身体を機能主義的に取り扱う」ということに徹底し、身体の出力を重んじないのは、それはあくまで「身体そのもの」のパフォーマンスの変化の指標にすぎない、いわば体温のようなものだからである。内田先生は、合気道の心構えとしてバードアイと内面スキャンを説かれたが、武道はその内面スキャンを通じて、身体を活性化させる。呼吸はその一助を担う身体活性術なのです。



まだまだ、違いとして、①競技人口、②間合い、③道→礼儀、④師弟関係→守破離、⑥集団⇔個人、⑦相手の力を利用する→スポーツは相手のいないところにパスを送る、武道は相手から面通しを外さない、⑧敵はいない=我執を捨てる、⑨稼働領域、⑩見世物→制約有りなど、書きたいことはたくさんありますが、身体パフォーマンスが大幅に低下してきたので、次回合気道練習後にしたいと思います。あしからず。