オードリー

このブログでは何度も書いているが、私はかれこれリスナー歴6年になるヘビーリトルトゥース※1である。
しかし、現実世界でオードリーのファンであることを明かすと、100%に近い確率で「なぜ?」というリアクションをされる。
それほどの熱量をオードリーに対して持っている人は、世間では希少種であって、嫌いじゃないけどあえて好きというほどでもないという人が大勢を占め、えてしてオードリー愛を語ると逆に気持ち悪がられる。
授業でカミングアウトしても誰も共感してくれない。※2
パソコンの壁紙を「オードリーのオールナイトニッポン」にしているので、まれに授業中に壁紙が黒板に投影されるハプニングがあるが、生徒の反応はほぼほぼノーリアクション。

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こんな壁紙
プロレスを壁紙にしていた頃は、教室がざわついたり、どよめいただけに、リトルトゥースとしては残念でならない。
最近では、説明するのが面倒なのでごく親しい人だけにしかリトルトゥースであることを明かさなくなってしまった。
一体オードリーのファンはどこに生息しているのだろうか?
まるで隠れキリシタンならぬ、隠れリトルトゥースである。※3
他のリトルトゥースたちもきっとどこかで、たった一人で息をひそめて暮らしているに違いない。
 
そんな肩身の狭い思いをして生きてきたリトルトゥースたちのハレの舞台が、オールナイトニッポン10周年武道館ライブだった。
なんと全国各地から1万人ものリトルトゥースが武道館に集結し、全国30館の劇場でライブビューイングが開催された。
これは最低でも2万人近くのリトルトゥースが生息していることを意味する。
2万人と言えば、京都で言えば、あの天橋立で有名な宮津市の人口に匹敵する数字であり、ちょっとした町を1つ作れる規模である。
にわかには信じがたい数である。
隠れリトルトゥースと呼び、これまで会いたくても会えなかったリトルトゥースで、武道館が埋め尽くされている。
それどころか、クソダサいラスタカラーのリトルトゥースTシャツを臆面もなく身にまとってやがる。

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こんなのが何百人もいた

誰もリトルトゥースであることを隠そうとしない。

リトルトゥースであることが肯定されるという奇跡。
全てのリトルトゥースにとって、オールナイトニッポン10周年武道館ライブは至高の時間だったことだろう。
私自身もリトルトゥースで良かったと心の底から思えたし、これまでの不遇な日々が報われた気がした。

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気持ちは山王戦の石井君と同じだ。

もしろいとかおもしろくないとか、そういったものを超越し、ただそこにいるだけで幸せだった。
それほどまでに武道館は多幸感に満ち満ちていた。
 
 
だが、なぜ私はそれほどまでにオードリーに惹かれるのだろうか?
この問いは、40歳を迎える私にとって特別な意味をもつと直感した。
だから誰も興味がなくても書かなければならない。
私が前に進むために必要な儀式なのだから。
 
すでに2015年のブログ「プロレスにハマる」で、「同年代のお笑い芸人であるオードリーの、つまり同じ時代を生きた者にしかわからない、共感や笑いや下衆さがツボにハマった。」と言っているように、歳が近いことが最大の理由だ。
この歳になると、日常で自分の年齢を自覚することは難しい。
ともすると、まだ30歳ぐらいと勘違いしてしまう。
職業柄日常的に高校生と接触するので、中身は高校生と大差ないと思うこともあるくらいだ。
しかし、見た目はおっさんなのに言動が高校生だったら、そうとうイタイ奴だ。
イタイだけならまだましで、大きな過ちを犯しかねない。
意識的におっさんになるように自戒するためのセーフティーネットの役割を果たしているのが、オードリーのオールナイトニッポンである。
というのもオードリーのオールナイトニッポンも、月日の経過とともにどんどんおっさん化していった。
いまやおっさんラジオと公言しているくらいで、2015年当時と隔世の感がある。
ラジオを聞くたびに共感することも多く、自分もおっさんになったなぁと同窓会的なノリで相槌を打つことができる。
ラジオを聞き終わる頃に、いつまでも若くないんだぞって戒めるのはもはや日課だ。

例えば、若林はこんなことを言っている。
「若い時は、誰かに『ダサい』と言われるのが怖い。でも、オジさんになるとそういう自意識や承認欲求が薄れて、自分の好きなものに突き進めたりする。」
若いころに馬鹿にしていたプロレスや、ダセェと見向きもしなかったラグビーやアメフト、プロテインを飲むことを過剰な自意識が邪魔して近づけなかったベンチプレスも、おじさんになると抵抗感なく楽しめるようになった。
しかし、おじさんになると、いい意味でも悪いでも丸くなる。
感受性も鈍るし、成長どころかそう簡単に自分を変えることができなくなる。
なれのはてが、人の足を引っ張ることでしか自分の価値を証明できない輩である。※4
「この歳になると上達することがなかなか無い。性根は一向に改善されないし、前向きな性格なんて死ぬまで手に入らないし。急におもしろくならないし。誰かのハッとする言葉にもうハッとしなくなっている。何歳になってもあくなき挑戦を続ける原動力となりうる自己実現の欲求がもうない。」
「そういう意味で自分が変わったなと思うのは、他人と比べて『あの人より上に行こう』という気持ちで仕事をするより、自分が持っているカードをどうやってうまく使うかに集中するほうが実はすごく合理的なんじゃないかと思えるようになったことで。嫉妬するのは疲れる。エンジンの回転も落ちる。だから、より自分のことに集中するようになったというか」
春日「できる・できないが、だんだんはっきりしてくるじゃないですか。歳をとると。」
若林「歳をとると、もうどうでもよくなるもんな。誤解されたままでよかったりさ。どうにもなんないことを経験してね」
リトルトゥースな私は、他人と比較することをやめた。
自分の得意なこと、自分がワクワクするものに時間や労力を使う。
他人に嫉妬するのは時間の無駄だ。
おじさんの極意を伝授してくれる。
だから、カッコよく年をとれる。
 
そう、2つ目の理由は、単純にオードリーの二人はカッコイイ。
若林と春日は、ニコイチでR40世代の理想像といえる。
若林は、MCをそつなくこなし、IPPONグランプリでも優勝するほどのワードセンスをもつ、知性的な漫才師である。
一方の春日は、脳天気で悩まないが、最強の身体能力をもつ肉体美を磨いた漫才師である。
フィンスイミング世界大会で銅メダルを獲得し、ボディビルの東京大会では5位入賞し、水曜日のダウンタウンの「暑いと寒い結局寒いの方がツライ説」で暑い部屋に閉じ込められていても、ひたすら我慢し、50度に達した部屋に5時間26分12秒も滞在した、何があってもあまり動じない男だ。
若林という知性だけでは不完全で、春日という肉体だけでも理想とは言えない。
どちらか一方ではダメなのだ。
トムブラウンのごとく若林と春日を合体させることができたら、それはR40世代の理想像となるということに気づいた。
すべてのR40は若林か春日のどちらかを追い求めて生きている。
だから、あこがれる。
 
3つ目は、情報をデトックスするためだ。
世の中は超情報化社会と言われるが、情報量が増えれば増えるほど人は思考しなくなる。
逆説的に、人の本能は情報と隔離された状態を求めている。
オードリーのオールナイトニッポンは、たまに金言があるが、ほとんどは中身がない。
だから、頭の中をからっぽにすることができる。
意味に支配された現代社会に於いて、無意味な空間というのは逆に貴重である。
何も考えなくていい。
仕事のことも、家庭のことも、将来のことも。
それが心地いい。
 

オードリーは、等身大のヒーロー像であり、サードプレイスである。
だから、やめられない。
私も、誰かにとってのオードリーのような存在でありたい。
 
 
 
※1リトルトゥースとは「オードリーのオールナイトニッポン」のリスナーのことを指す。
※2数年前に、一人の生徒が最後の授業で「先生、実は僕もリトルトゥースでした」とささやいた時にはゾクッとした。その生徒を見る目が変わったのは言うまでもない。それ以来、リトルトゥースには遭遇していない。
※3「隠れリトルトゥース」というワードを思いついたとき、自分のことをセンスの塊と思ったが、mihorobotさん(https://note.mu/mihorobot/n/n522f34924411参照)も全く同じワードを使い、リトルトゥースに会えないことを嘆いていた。リトルトゥースあるあるに認定。
※4特に面倒くさいのが「いかがなものか」病である。前例を持ち出し、絶対的安全圏から他者を非難するしか能がない。