仁義なき西国旅

今月の3連休は、久しぶりの完全オフだったので、ここんところの激務の疲れを癒し、鋭気を養うために妻と温泉に出掛けました。中沢新一が「アースダイバー」で述べているが、温泉につかることで大地の奥の燃えさかる火のエネルギーを受け取るのである。とにかく、何も考えず、ただボーとするために、目的もなく、ハンドルを握った。
ゆっくり休んでリフレッシュできる温泉なら、どこでも良かったので、車で行ける場所(雪の降っていない場所)、3連休なのでちょっと遠めの場所、あまり行ったことのない場所、2週間前で予約のとれる場所(旅は基本的に、その時にピンときた場所にいくに限るから、半年以上も前から計画するのは愚行である。大切なのは、身体のセンサーに耳を傾けることです。)と、消去法で目的地を絞っていったところ、萩に決定した。(妻はわりと、旅の行き先の決定権を私に譲ってくれるので、だいたい私の行きたい場所に行くことになる)


ところが毎度のことだが、旅にでると、身体のセンサーの感度が抜群になる。萩に向かう車の中で、今から9年前に萩に行ったときの記憶が否応なしに私を襲った。9年前の私は、その地に眠るある人物を激しく求めていた。いや、正確には彼の“志”を求めていた。そして、私は、そこで志に根を張った。それは今から9年も前のことだが、まるで昨日のことのようであり、あの頃の自分と今の自分は地続きの物語の中で生きていると、はっきりと覚った。変わったことといえば、助手席に乗っている人と、高速道路が1000円になったことと、松陰神社の駐車場が整備されていたことぐらいだった。私は、吉田松陰になんとしても会わなければならないと血走っていたあの時に、教育の原点を見出した。そして、9年後の今、その初心を思い出した。


松陰には何もなかった。あったのは“志”と畳十畳ほどのぼろ屋だけだった。そこで、高杉晋作伊藤博文をはじめとする明治維新の原動力となる人材を、たった2年の教育で、育て上げた。“志”こそ私の教育の原点であり、松陰の教育は私の理想だ。それに比べて、何を今の自分は、時間がないだの、誰も手伝ってくれないだの、制度が悪いだの、何をちっちゃなことを言っているんだろうか。無いものねだりせず、無いならば、自分で創り出せばいいだけじゃないか。


松陰先生は、今の私を見て、どう思っているだろうか。気になって、気になって、めったにはやらないおみくじを引いてみた。そこには、大文字で“大吉”と書かれていた。(ちなみに、妻は中吉)そして、そのすぐ上に御教訓として「志を立つるには特異なるを尚ぶ」(大きな夢をもってよく始められた仕事は半ば成功している)とあった。松陰先生が、すぐそばで、今のまま突き進めとささやいてくれているようだった。志が、大動脈、静脈、毛細血管を問わず、全身の血脈という血脈を駆けめぐる。温泉に浸かっているよりはるかに心地よい。結局、リフレッシュどころか、余計に血をたぎらすこととなった。


また、そこで、松陰先生は私へ次の方向性を示すことも忘れなかった。「まず、地理を学べ」。グローバル化などの弊害により社会システムの綻びが明らかになった現代では、歴史よりも地理を、時間よりも空間を、重要な基礎概念とした思想を立脚点とすべきだ。つまり、時間的な座標軸によって世界を位置づける直線的な歴史の論理ではなく、空間的な多様性やローカル固有の価値を再発見する脱中心的なモデルと親和性の高い地理こそ、幕末と同じように閉塞感を覆われた現代を打破する学問なのだ。そして、それはもちろん私が口酸っぱく言っている「コミュニティ」とも密接に関係している。4月からは、初めて地理の授業を担当することになる。歯車のかみ合う振動が、さらに身体を活性化させる。



活性化した身体のセンサーは、次に広島に反応した。松陰神社の近くのガソリンスタンドに立ち寄ると、なぜか広島から出張で来たスタンドマンがいた。何の気なしに、会話に応じていると、インスピレーションが舞い降りてきた。広島といえば、「仁義なき闘い」じゃけぇ。仁義なき戦いの大ファンである私と妻(!?)にとって、神の思し召しとしか思えない邂逅だった。そこから、会話のアクセルはフルスロットルである。スタンドマンから、仁義なき場所の情報を、よその客(といっても地元の客だからそちらを優先するのが筋なのに、スタンドマンも無視するほど熱くなっていた)そっちのけで聴取した。急遽、次なる目的地は、広能組本部“呉”に決定。もともと、牡蠣料理が食べたいと妻が断固主張していたので、立ち寄る予定だったが、もちろん宿など予約していない。基本的に、旅は思いつきが肝心なのだ。だから、ワクワクする。


呉は、近代的な(現代的でもなく、典型的でもない)港町だった。港には造船所が建ち並び、塩の香りではなく、鉄の匂いが立ちこめている。それだけで、仁義なき戦いで描かれた暴力の世界を想起させるに十分だった。そこは、平家の貿易港だった音戸の瀬戸がひらかれたように、古来より富と力の源泉だった。(考えてみると、ヤクザの総本山のほとんどは、神戸だの、山口だの、福岡だの、港町に存在している)航空技術が発達した現代では、港の重要性は低下したけれども、そこには内陸の京都や東京にはない、荒々しくしくもどこかもの悲しい哀愁が漂っていた。「ヤクザ集団の暴力は、市民社会の秩序の中に埋没していった。だが、暴力そのものは、いや、人間を暴力に駆り立てる様々な社会矛盾は、決して我々の周囲から消え去った訳ではない」という言葉(『仁義なき戦い・頂上決戦』深作欣二、1974 )が、やけに重量感を帯びて感じられる町だった。



結局、この旅で1番仁義がなかったのは、萩でもなく、呉でもなく、理不尽な妻の怒りでもなく、車の渋滞だった。おかげで、24時間以上運転する羽目になり、すっかり広島ヤクザの口調も板につき(退屈を紛らわすために、妻と仁義なきモノマネ大会を車中で開催した)、当初の目的であるリフレッシュからはほど遠い西国旅となった。(しかし、妻の「山守組長の妻」のモノマネは最高で、大いに笑った)


「人間の社会から渋滞が絶えるのは、果たしていつのことでしょうか」