僕のヒーロー

去年の夏休み、友人を訪ねてスリランカを旅行した。
そこで出会った僕のヒーローについて、話をしたい。

セレブなスリランカ観光※1を終え、家路についた真夜中の出国ゲートに時間を巻き戻す。
フライト時刻は1時20分。
バンコクでトランジットが必要なタイエアーで帰国する予定だった。
出国手続きなどはスムーズに進み、12時には出国ゲートに到着した。
まばらに免税店があるだけの殺風景なバンダラナイケ国際空港ではやることもなく、早々に搭乗ゲートをくぐり、読みかけの文庫本を読んでフライトを待つことにした。
ところが、12時半くらいに異変に気づいた。
誰一人搭乗ゲートを通過してこないのだ。
僕の周りは、僕より前か、僕と同じくらいに搭乗ゲートに到着した人だけで、そういえば、ずっと同じ顔触れだった。
「のんきな国だな、あと30分で搭乗が始まるのに」くらいにしか考えていなかったが、どうやらゲートが封鎖されていたようだ。※2
いつもは無駄に気を急かされる搭乗案内も、今日に限っていつまでたってもアナウンスされない。
外を見渡しても一滴の雨も降っていないし、フライト予定の飛行機はガラス一枚を隔てた目と鼻の先にあるにもかかわらず、搭乗さえ始まらない。
封鎖されたゲートとフライトの遅延という二つの事実が結びついたのは、フライト予定時刻の1時20分を過ぎたころだった。
どうやらのんきだったのは、僕の方だった。
何らかの事情で飛行機は飛ばない。
1時間以上も前からゲートが封鎖されていたという事実を考えると、最悪の可能性としてテロもありうる。
不安だけが募るが、客室乗務員から事情を説明されることは一切なかった。

とりあえず出国ゲートから移動するよう指示があったらしいので、”らしい”というのも、周辺の乗客がゲートから移動し始めたことから推測したのであって、いま何が起きていて、どうすればよいのかがさっぱり分からない。
ただ、こういう時は、日本人が得意とする「空気を読む」という能力が非常に役に立つ。
周囲を観察していると、航空会社と折衝していた黒人さんが明確な意思が感じられる行動を始めたので、コバンザメのように後をついていくことにした。
どうやら、カスタマーセンターでないと分からないと言われたらしい。
カスタマーセンターはすでに乗客であふれかえっていた。※3
カウンターに身を乗り出して、胸倉をつかまんばかりの勢いのカナダ人や、機関銃のように言葉を浴びせかける中国人。
怒号が飛び交い、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
僕自身も何も説明もない、指示さえないことへの多少ならぬ怒りがあったが、怒りのボルテージのレベルが違う。
僕はすっかり興ざめしてしまい、逆に航空会社に憐憫の情を抱いてしまうほどだった。


怒りは不安と空腹と睡眠不足によって膨張する。
これは長年の経験則で妻から学んだことだが、集団心理にもあてはまる。
航空会社はパニックになる前に、不安を解消し、空腹を満たし、眠らせるべきであった。
不安は無知から生まれる。
なぜ飛ばないのかの原因と、これからどうなるのかを示すタイムライン、その両方について航空会社から明確な説明がなかったことにより、不安は増幅していった。
この出来事から学ぶべき教訓は、3つある。
其之一「情報は公開すべし」。
実は、今回の欠便の原因はバードストライクにあったのだが※4、僕の知る限りでは乗客全体に対しての説明がなかった。
ハドソン川の奇跡」から月日もそない経っていないこともあるし、バードストライクの件を説明すれば、欠便に異を唱える者などいなかっただろう。
しかし、待てど暮らせどアナウンスはない。
情報に飢えた乗客の間で、タイから部品を取り寄せて交換するため修理には丸1日はかかるというデマが流布し、ストレスをいたずらに不安を増幅させることになった。
隠すから人は知りたくなる。
そして、人は知りたいように物語を構成する。
噂に尾ひれがついて、とりかえしのつかない状況に追い込まれる。
ピンチの時ほど、情報は、隠すことなく正確かつ迅速に公開することを、対岸の火事ながら教訓として胸に刻んだ。
其之二「最悪の事態を想定すべし」。
飛行機が遅延したり、欠便になることなんて日常茶飯事のはずなのに、マニュアルさえ存在していないようで、いきあたりばったりな印象を受けた。
その後の対応で、超高級ホテル、代替機などの準備が完璧になされるのだが、怒りがピークの状態で提案されるので、要求はエスカレートの一途をたどった。
危機管理の局面においては、常に最悪の事態を想定して、先回りして準備しなければならない。
其之三「とりあえず腹をふくらませるべし」。
今回の初期対応で唯一の合格点は、比較的早い段階でレストランを開放し、飲み物と食べ物を供給したことだった。(ただし、コーラ1本などケチ臭いことは言わず、取り放題ならばベスト)
もう深夜2時を回っていて、腹も減ってるし眠い。
「今後の見通しさえ立てば、フライトが遅れようがキャンセルされようが、もうどうでもよい。とにかく腹が減ってんだょょょょょう」
というのが皆の正直な気持ちだった。※5
人は腹が減ったらイライラする。
腹が減っては戦はできぬというが、腹が減っては冷静な判断などできやしない。
案の定レストランを開放すると、怒号はやみ、深い夜がやっと到来した。



映画『ターミナル』※6気分で空港の椅子で寝ていたら、目を覚ますと、時刻は7時を回っていた。
すると、周囲にいたはずの見慣れた乗客たちが一人もいなくなっていた。※7
きれいさっぱり、一人残らずだ。
慌ててカスタマーセンターへ駆け込むと、ほかの乗客はすべてホテルに輸送されたとのことだった。
目の前が真っ暗になった。
絶望とはこのことを言うのだと思った。
僕たちはこれから一体どうなるのだろう。

その時だった。
やはり、ヒーローはピンチで登場する。
しかし、のちに僕がヒーローと呼ぶことになる彼は、その時は眼鏡をかけ、スーツを着た優しい三島平八※8にしかみえず、緊急事態にもかかわらず、そのギャップに吹き出してしまった。
つまり、第一印象はヒーローとはほど遠かった。

彼は、取り残された僕たちに「お前らはラッキーだ。寝ててよかったな。」とおどけてみせた。
僕たちには、その冗談が全く通じず、ただポカンとしていた。
どうやら、バンコク経由の乗継便だったルートを成田への直行便に変更してくれたらしい。
とにかく日本に帰ることさえできればいいと、弱気になっていた我々にとって、彼は命の恩人といっても過言ではない。
というのも、その時手渡された航空券の裏に走り書きされた彼の電話番号によって、何度も命拾いしたからだ。※9

彼とはいったんここで別れ、僕たちはフライトまでの時間を、空港から市内へ再び舞い戻り、超高級ホテルで過ごすことになった。
高級ホテルの朝食バイキング※10に舌鼓を打ち、フカフカのベットで眠りについた。
わずか数時間前に、まずい軽食を食い、空港の椅子で寝てたのがまるで嘘のようである。
安心したのも束の間に、次なる問題が発生した。
我々は空港に戻らなければならない。
しかし、直行便に乗り換えるという特殊な対応だったので、送迎車が用意されておらず、ホテルの担当者に聞いても埒が明かない。
担当者いわく、航空会社に聞いたが、そんな対応は指示されていないの一点張り。
途方に暮れかけたとき、航空券に走り書きされた数字をみて、思い出した。
我々が本当のことを言っていると、彼に証明してもらうしかない。
ホテルのマネージャーに、彼に電話するよう指示すると、事態は一変した。
すぐにアウディが用意され、最高級のもてなしで空港に送り届けられた。

ところが空港でも一筋縄ではいかない。
どうやらこの国では情報は共有されないようで、またしても、そんなことは聞いていない地獄が始まった。
2回目の出国となると慣れたもので、一目散に搭乗手続きカウンターに向かい、やっとこの不幸から解放されると思いきや、乗客登録がされていないの一点張りで、搭乗手続きができない。
どうすればいいか聞くと、カスタマーセンターに行けと追い払われる。
カスタマーセンターに行くと、知らないから隣のキャッシャーに行けと。
キャッシャー?
乗客登録をするのに、なぜ金銭を取り扱うカウンターにいかねばならないのか。
案の定、キャッシャーはわからないから、搭乗手続きカウンターに行けと、たらい回しにされ、振出しに戻る。
このままでは飛行機に乗ることできそうにない。
天を仰いで嘆息していても、事態が好転することはないことだけはわかっている。
彼に頼るしかない。
カスタマーセンターに戻り、何度もお願いして電話させてもらうと、彼から15番カウンターに行けという指示をもらう。
15番カウンターに30分くらい並び、あと1組で順番というところで、彼が現れた。
これで大丈夫だと思うと、全身の力が抜けていくのがわかった。
それしても、間一髪だった。
あのまま15番カウンターに到着しても、またあの不毛なたらい回し地獄に落とされただろう。
それを絶妙のタイミングで登場だ。
やっぱり、彼は僕のヒーローだ。
何千人といたであろう、あの空港のなかで誰よりもカッコよかった。

最後に、もう一つの心配事であった荷物に関しても、彼は成田に届くように完璧に処理をしてくれた。
もう何も僕たちを阻むものはなくなった。
すべて彼のおかげだ。
ところが、彼は礼を言う間もなく、その場を立ち去ろうとした。
礼だけはきちんと言いたくて、スリランカ風に手を合わせて、お礼をいうと、はじめて笑った。
そして、立ち去って行った。

初めは、不愛想な人としか思わなかったが、こんなに頼もしくてかっこいい大人はいない。
僕のヒーローだ。
このやり取りのため、断続的に電話連絡をしていたわけだが、彼は毎回必ず電話に出た。
ということは、24時間以上寝ていないということだ。
彼は、見返りを何も求めず、ただ見知らぬ異邦人のために身を粉にして働いた。
無償の愛を感じた。
僕だったら、できただろうか?
たぶんできない。
どこかで自分に言い訳してあきらめただろう。
子どものころに憧れたヒーローとはたいぶ違うけど、彼のように、困っている人を絶対に見捨てない、自分の職務を全うする人こそ、ヒーローと呼ぶにふさしい。
彼の後ろ姿をみながら、僕も誰かにとってのヒーローでありたい、そんな大人になろうと思った。



※1現地駐在する友人による最高級のもてなしを受ける。安宿とは無縁なセレブ旅であった。スリランカそのものについては、またどこかで話をしたい。
※2トイレに行くためにゲートを再び出た妻が封鎖されていたと証言している。どうりで誰一人来ないわけだ。
※3どうして僕たちより早くカスタマーセンターに行くことができたんだろう。
※4僕のヒーローがこっそり携帯電話の写真を見せて教えてくれた。
※5レストランから出て寝床を探しにフロアに出ると、寝れるタイプのベンチはすでに占拠されていた。やっぱり皆眠かったんですね。
※62004年公開のアメリカ映画。スティーヴン・スピルバーグ監督、トム・ハンクス出演。パスポートが無効になりターミナルに閉じ込められてしまった男と、ターミナル内の従業員との交流と恋模様を描いた作品。
※7それにしても、6時くらいに一旦起きた時にはまだ周囲に乗客はいたので、この1時間くらいに何が起きたのだろうか?
※8ゲーム鉄拳のキャラ。『鉄拳』シリーズの第一作目から最新作まで、しつこく登場している悪の枢軸。キャッチコピーは鉄拳王。ハゲているが両側の髪は尖っており、髭が生えている。世界トップクラスの財閥である三島財閥の頭首。ちなみに名前の由来およびキャラクターのモデルは漫画『魁!!男塾』の江田島平八
※9口約束で満足していたら大変なことになるところだった。この後、何度直行便に乗れると説明しても誰も信用してくれなかった。
※10またカレー