TPP

進学補習がおもしろい。
なぜなら、「日本史補習」という看板が掲げられているだけで、50分という時間的制約はあるが、基本的に自由設計の授業だからです。
まるで眼前に広大な未開の地が広がる西部開拓時代のアメリカのようで、気分はカウボーイです。
ですが、なぜそんなことが可能かというと、当初は受験対策講座であったので過去問を解説していた時期もあったのですが、私立大学の骨抜き入試(公募制や指定校)のせいで、日本史を受験で使う生徒がいなくってしまったからです。
そして、にもかかわらず残った生徒で構成されているのが今の進学補習なのです。
だから、ガツガツ受験対策をする必要もないし、かといってせっかく7限目まで残った生徒相手に雑談するのでは、補習の意味がありません。
そこに残った生徒達は、授業と大学合格という等価交換原理を放棄し、学ぶことをやめないタフガイです。
偏差値の高い大学に行くために勉強するという費用対効果だけで考えると極めてナンセンスな選択ですが、知的欲求が市場原理を超越した稀有な例といえるでしょう。
ならば、一方の私はそうした知的欲求を刺激し、充足させる授業をデザインしなければなりません。
当然、知識や受験テクニックといったコンテンツをパッケージ化したレディメイドの授業には見向きもしないでしょう。
消費される刹那的な知識ではなく、贈与すべき普遍的な智恵をコンテクストにして紡ぐのです。
しかし、普遍的なものは具体的にしか語れず、刹那的なものは記号的にしか語れません。
つまり、普遍的なものを語るためには、すべからく代替のきかない一回性の授業となるのです。
それは、体温があり、顔もあり、物語をもつ唯一無二の私と唯一無二の生徒の両者が、その場にいないと成立しない、まさに掛け替えのない授業です。
だから、その時の体調や社会情勢や空気といったわずかな入力差でアウトプットは大きく変わります。
そんなフラジャイルな授業にはもちろん、教材研究は必要ですが、それだけでは足りません。
社会を見る眼を常日頃から養っておく必要がありますし、目の前の生徒達が何を求めているのかというアンテナを張っておく必要もあるし、タイミングや表現にも気を配る必要があります。
つまり、場に感応できなければ、言葉は上滑りしてしまう。
だから、全身の感覚を全開にし、センサーの感度をあげ、集中力を極限まで高めなければなりません。
このように身をよじるように振る舞ってやっと、若者に託すべき使命感を帯びた言葉を、我が身を賭して投じることができるのです。
おそらく、吉田松陰はこんな授業をやっていたんだろうなと思うことがあります。
松陰のように時代を作っている感覚はまだありませんが、彼らの世界に風穴を開けているという確かな実感はあります。

そのなかで私が特に繰り返し強調しているのが、「自明性を疑う」ということです。

曰く、「私自身が説く内容でさえ疑え、どれほど説得力のある前提であっても、前提そのものを疑う反論を準備しなさい。」
曰く、「自明性におおわれた日常生活をあえてカッコでくくり、常識となっている知識や考え方・価値観を徹底的に疑ってみなさい。」
曰く、「自分自身を激しく揺さぶる人物に出会いなさい。世界が一変するような本に出会いなさい。それが既存の価値を相対化する具体的な第一歩です」

大学では、知識の中身そのものより、こうした知的スタンスを身につける訓練を積むようにしなさいと繰り返し言っています。
前回の授業ではTPPを俎上に載せて、自明性の解体作業を行いました。



いまのTPPをめぐる議論の基調には「市場原理主義」という与件があります。
まるで市場が文化・社会・政治、市民生活のありとあらゆる空間を覆い尽くしているかのようです。
貿易の一形態にすぎないTPPは、その市場原理主義の落とし子のようなものです。
まずは、市場原理主義の全称命題である「競争は善」という自明性を疑う必要があります。


私の住む京田辺市では、レンタルビデオ仁義なき戦いが勃発しています。
TSUTAYAしかなかったレンタルビデオ不毛の地に、ゲオが挑戦状をたたきつけたのです。
半径わずか百メートルたらずに、二つの大資本系レンタルビデオショップがしのぎを削っています。
それはたいそう激しいものです。
ゲオは、新作DVDは180円、旧作は80円という規格外の値段。
新作400円、旧作290円という殿様商売をしていた従来のTSUTAYAでは全く太刀打ちできません。
あっという間に顧客は攫われ、閑古鳥が鳴く有様となりました。
そこで、何が起きたか?
新作350円、旧作100円という大胆な価格改定です。
田辺地区以外のTSUTAYAの値段設定をみれば、その価格が異常事態を示していることは一目瞭然のはずです。
しかし、これでもTSUTAYAはゲオに及びません。
そこで次に何が起きたかというと、無料郵便返却サービスです。
TSUTAYAの攻勢はそれだけにとどまりません。
矢継ぎ早にレンタルコミックサービスを開始しました。
このように競争という原理が持ち込まれた結果、TSUTAYAのサービスは劇的に向上することになったのです。(おかげでわが家計も非常に助かっているのですが・・・)
これを目の当たりにした田辺住民(ほとんどは同志社大学生)は、きっとこう思ったに違いありません。
競争は善だ。

物量戦で遅れをとったゲオの客足は明らかに鈍りました。
かつての勢いはみられず、日本の公定歩合のように、超低価格のため価格操作が全くできず、打つ手がありません。
ゲオはレンタル部門で利益をあげていないことは、火を見るよりも明らかです。
しかし、TSUTAYAの体力も衰え、フランチャイズ経営から本社直営店に転換するという抜本的なテコ入れをせざるをえませんでした。
この仁義なき戦いは、どちらかが先に音をあげるまで続くチキンレースの呈をなしています。
このまま消耗戦が続けば、数年後、田辺からレンタルビデオ店が消えるやもしれません。
それにより、不利益を被るのは結局住民です。
両者共倒れになったとしたら、地域の映画文化を支える屋台骨は痩せ細ることになるでしょう。
たとえ片方が生き残ったとしても、かつての損失を価格に転嫁し、料金は一気に跳ね上がるでしょう。
しかし、選択権を失った住民はたとえこれまでより高価格であったとしても、そこでレンタルするしかなくなります。
結局、住民は得たもの以上のものを失うことになります。


同様のことがTPPにもあてはまります。
政府は「職と農林漁業の再生推進本部」でTPPのねらいを農業の国際競争力を高めることと宣言しています。
そう”競争”です。

競争の果てに待つのは先に見た、消耗戦です。
日本政府がこれまで手厚く保護してきたのは、農業や金融などの分野です。
米は778%、バターには360%、小麦には252%の関税を課し、農作物全体では21%の関税率で国内産業を保護してきました。
しかし、食糧自給率はというと、米は100%(主食用)、乳製品66%、小麦13%、大豆5%、とうもろこし0%となり、関税なしでは国内農作物を守ることができないのは明らかです。
これでは消耗戦どころか、コールドゲーム間違いなしです。
預貯金残高1000兆円を超えるゆうちょに関しても、アメリカは金融テクノジーを駆使して簒奪する胸算用をしていることでしょう。
安価な外国製品を選好して国内産業を壊滅するに任せたせいで、主食をアメリカの言い値で買うしかなくなります。
産業を壊すことは簡単ですが、いったん崩れた産業を再建することは絶望的に困難です。
それは、基幹システムを外注してしまい、自社で運用管理できなくなってしまったが為に、隷属関係を結ばされてしまったJALという会社のなれの果てと重なります。

TPP推進派とは、韓国製品に押され気味の日の丸電機業界の変態であることは周知の事実ですが、そもそも韓国との競争に勝ち目はありません。
なぜなら、たかだか数%の関税など、為替変動の前では意味をなさないからです。
圧倒的な円高が続く中で、価格優位性を維持することなど土台不可能なのです。
逆をいえば、関税が高くとも、円安になれば、価格優位性は確保されるのです。
グローバル化した今日の世界において、国内市場を保護するための最も強力な手段は関税ではなく、通貨なのです。
市場原理主義に深く侵されたため、目先の利得の競争的配分に目が眩んで、人々は生き残ることに真に必要な人間的資質の開発に資源を投資することを怠るようになったようです。
「生き残る」というのは「競争」とは違います。
身体を支える農作物、経済の血流である金融、脳の役割を果たす先端技術、これらの「生き残る」ために必要な人間活動の基盤を破壊されてしまってからでは取り返しがつきません。
我々の生存を脅かすのは、TPPそのものというより、TPPの背後にある「今がよければそれでよし、長期的にみて安定的に自己利益に資するかどうかについては気にしない」という朝三暮四型知性を前提にした市場原理主義なのです。


つまり、TPPは問題であって、問題にあらず。
確かにTPP自体は日本にとって多くの問題を抱えるルールですが、これは目新しい問題ではなく、原発も米軍基地もWBCなどどれほど変数を加えても一向に解けない問題であり、新しい座標軸を設定し、次元を操作して考える必要があるのです。
そのカギを握るのが、先ほどの市場原理主義であり、栄枯盛衰という世の理です。


ペリー来航以来、アメリカの対日政策は強硬姿勢を貫いてきました。
そうした圧力に屈してひとたび開国してしまうと、1858年の開港後貿易による横浜発のインフレや戦後の混乱などのような国難に見舞われます。
2010年オバマ大統領は、一般教書演説で「今後5年間で輸出を倍増する(国家輸出戦略)」と発表しました。(日本が被るであろう被害を考慮すれば、これを開国と呼ぶのは的を得た指摘といえます)
そこには、これまで同様日本の事情は考慮されておらずアメリカの自己都合でしかありません。

アメリカの経済力には陰りがみえるのは否定しがたい事実です。
なりふり構わず自国の経済を守ろうとするのも、仕方ないでしょう。
しかし、超大国ができるだけ長い期間その尊厳を維持したいと望むなら、決して失ってはならないものがあります。
「フェアネス」に対する配慮はその第一のものです。
力のあるものが実際にもフェアであるとは限りません。
力があるものは蔭ではどんなことだってできるし、現にしているでしょう。
けれども、それが表に見えてはいけない。
「ほんとうにフェアである」必要はないが、「フェアにふるまっているように見える」必要があります。
アメリカはいま国際政治でも貿易でも、そして野球のような遊びでさえ、アンフェアなことを平気でやるようになりました。

TPPのルール作りは、参加各国の経済構造から生まれた政治力学によって”米国主導”で進むように仕組まれているため、日本は負けることが宿命づけられたゲームなのです。
また、いつでもアメリカは安全保障をバーター取引にかけることができます。(恐らく今回の交渉でもこのカードは切られていると考えるのが妥当です)
ルール策定のイニシアティブを奪われてしまったノルディックスキーや柔道の苦戦っぷりをみれば、敗北はいとも簡単に想像できるでしょう。
TPPとは逆説的ですが、フェアネスを失ったアメリカが遠からず没落することを示唆するメタファーなのかもしれません。


このようにTPPにコペルニクス的転回を加えると、日本が取った選択肢というのは、「アメリ切腹、日本介錯論」のように映ります。
日中戦争最中の中国が、日本の攻勢侵略から中国が救われるためには当時の二大強国になりつつあるアメリカとソ連の力を借りなければならないと考え、そのために中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、2・3年間負け続けたという戦略が胡適の「日本切腹、中国介錯論」です。
その亜流が「アメリ切腹、日本介錯論」です。
日本は肉を切らせて骨を断つことを考えているのかもしれません。
そうだとすれば、これまでどのメディアも学者もブロガーも論じることがなかったアクロバティックな巨視的政策といえるでしょう。
アメリカが滅びていくことがもたらす被害をどうやって最小化するか」という課題に対して先鞭をつける歴史的事業がTPPなのかもしません。


キンコンカンコーン♪キンコンカンコーン♪