アフターコロナ

在宅勤務が唐突に始まった。
青天の霹靂とはこのことで、理念もへったくれもありゃしない、ただ「緊急事態だから」とだけしか説明されなかった。
つまり、今後の見通しはおろか、オンライン環境さえ整わないなかでの見切り発車なので実質的にはただの放牧である。
実際現場はカオスである。
YouTubeで動画授業を作成する先生もいれば、ぼーと過ごしている先生もいる。
しかし、リモートワークと無縁だった学校現場に導入された意味はとてつもなく大きい。
おそらく平時だったら、何年かかってもできなかっただろう。
わずか1年前には学校現場で使用することはタブーだったGoogleフォームやzoomといったテクノロジーさえも、あっという間に導入されていった。
それまで個人情報や公共性を理由に疑問を呈した人たちは口を閉ざし、何も言わなくなった。
非常事態は、歴史のプロセスを早送りする。
今は平時ではないのだ。
 
前回、「時代の転換期には新しい技術の登場とともに疫病や災害が発生することがままある」と指摘したが、逆かもしれない。
疫病や災害といった厄災を乗り越えるために新しい技術を必要とした。
そして、その新しい技術が日常の中に組み込まれていくことで、世界が一変する。
だとしたら、コロナという厄災は、世界に何をもたらそうとしているのか?
 
藤原和博さんが『10年後、君に仕事はあるのか?』という著書で、「世界の半分がネット内に建設され、人間がその世界で人生の半分を過ごすようになる」と指摘していたが、おそらくこれだ。
 
昭和世代にはピンとこないかもしれないが、辻仁成の息子が「ぼくらの時代の原っぱはネットのなかにある」といっているように※1、すでにデジタルネイティブ世代にとってオンラインとオフライン※2は等価値となっている。
それが、コロナによるソーシャルディスタンスによって物理的に人と人との接触が制限され、オンラインの価値が一層高まり、もはやオフラインを超越したといっても過言ではない。
最もテクノロジーが遅れている教育の世界ですら、オンラインを前提にした教育活動に再設計されつつあるくらいだから、すべての分野において、リアルは後退し、オンラインが当たり前になっていくだろう。
これがアフターコロナの世界の序章だ。
2001.9.11に世界は変わってしまうと感じたが※3、今あの時と似た気持ちで世界と対峙している。
どうせ変わるのならば、今度こそワクワクする世界にしたい。
 

※1 4/22朝日新聞朝刊
※2 違和感があるが、オフラインとは現実世界のこと。
※3 なぜかリーマンショックの時は全く感じなかった。