“学び”をめぐる日本社会の宿痾

東日本大震災が文字通り、京大を初めとした
一連の入試カンニング事件を、あっという間に飲み込んでしまった。


この事件は、“学び”をめぐる日本社会の宿痾を垣間見せる
非常にメタフォリカルかつ徴候的な、見過ごすことの出来ない事件でしたが、
メディアは、地震が起きたことをこれ幸いにと、慌てて臭いものに蓋をしてしまったのでしょうか?
いや、それともこの事件が内包する病理に深くコミットしすぎているため、
適切な距離がとれずに見落としてしまったのでしょうか?


当初事件は、センセーショナルに報道されましたが、
犯人が一介の受験生であることが特定されると、熱狂は冷め、
単独犯であることが判明すると、一層興奮は冷え込み、
さらに、スキャニング機能さえ使わず手打ちであることがわかるころには、メディアは関心すら失っていました。
事件が真相に近づけば近づくほど、関心が薄れ続けていく異常さに、
何かを隠蔽しているのではないかと訝しんでも仕方なかろう。


私が事件に着目するに至ったことの発端は、
そもそもこの事件は、メディアが大々的に取り上げるほどの事件なのだろうか?
という疑念を抱いたことだった。

報道を事件の軽重だけで判断するならば、
真っ先に切り捨てられてしかるべき事件でした。
つまり、メディアが大々的に取り上げるほどの事件ではないというのが答えです。
しかし、偽計業務妨害という軽微な事件は、過剰報道に陥った。
何がそうさせたのか?
それはおそらく、嫉妬だと思う。
京大卒という最強ブランドを労せずして手に入れることを、
理屈抜きに許すことができなかった。

というのも、世の大人達も、受験勉強という受難を経て、
今の地位や生活や人格を獲得してきたからです。
異論はあると思いますが、現代の受験は、
学歴と社会的地位や経済力には相関関係があるという社会的合意の下、
いかに少ない知識、少ない学習時間、少ない知的負荷で、
成績を上げ、社会的価値の高い学歴を手に入れるか、を競うゲームに成り果てています。
そのゲームの勝者には、一種の関所手形のようなものが発行され、人生の難所を通過しやすいよう援助されます。



日本の高校生の50%以上が自宅学習時間ゼロという事実が端的な証左です。
「どうやってできるだけ勉強しないですませるか」ということが喫緊の課題であって、
そこに知的リソースの大部分を投入してきた者達にとって、
カンニングという最小限の努力で合格が許可されることは、負けに等しい。


つまり、過熱した報道とそれに付随するハレーションは、
純粋に純然たる“不正を許せない”という美しい正義感から発せられたものではなく、
自分より高い費用対効果でもって、競争に勝ち抜くことを、感情的に許すことが出来なかったこの競争の勝者に対する嫉妬なのです。
だから、この受験生が弱者であることが発覚すると、
潮が引くように、サーと嫉妬の渦は消えたのです。

この事件は、非難する側も、非難される側(一人だけですが)も、同様に
「この世でたいせつなものは『学力そのもの』ではなく、『学力をもつことでもたらされる利益』である」という時代の支配的風儀の被害者であって、同じ穴のムジナなのです。
責められるべきは、両者のどちらでもないと思う。


その中で、最も憂慮すべきは、人間の知性のいちばん根源にある力の軽視であり、弱体化です。
つまり、この事件で最も恐ろしいのは、不正の横行や、学歴社会などではなく、
「yahoo知恵袋に投稿すれば、正しい答えを得ることができる」という信憑が流布した点にあります。
そうした信憑が広がることによって、何が起きるか。
学びへの欲望が確実に減退します。
勉強なんかしなくても、必要があればネットでなんでも調べられるのだから、当然です。
そうして、学びへの欲望の枯渇によって、学力の意味そのものを変容してしまった。


学力が、「同一平面上で水平移動域を拡げること」、
つまり、知識を増やすことと同義となった。
これは、『学力をもつことでもたらされる利益』に裏付けられた価値観であり、
パソコンのスペックを増強するのと同様の考え方です。
知識量を増やせば、資格を獲得し、TOEICのスコアを上げることはできます。


しかし、「学ぶ」というのは、キーワード検索することとは別のことなのです。
自分が何を知らないかについて知ることが、「学ぶ」ということであり、
「自分の知らないこと/自分にできないこと」の中に位置づけられてはじめて
「自分が知っていること/自分ができること」は共同的に意味をもちます。
つまり、学力とは、知識についての知識をもつことであり、
「知識の階段を上がること」を要求するハイレベルな知的営為であり、
つまるところ、別人になるということです。


学力を市場原理に基づいた等価交換という言語で理解している限り、
学力低下はもとより、カンニングなど未来永劫なくなりはしないだろう。