全能感の時代

ぜんのうかん【全能感】 心理学用語で、「自分が何でもできる」という感覚を意味する語。特に子どもの発達段階において、しばしば見られる現象である。躁病や自己愛性パーソナリティ障害の構成要素の一つとされることもあり、自身の能力を過大評価してこの感覚を持つことによって、対人関係などに問題が生じる場合もある。万能感とも言う。 〜日本語表現辞典 Weblio辞書〜


2012年1月6日のブログで、「閉塞感」を切り口にして、現代の日本社会を覆い尽くす空気について考察しました。
グローバル化によって外部を喪失した世界での生きづらさを代弁した「閉塞感」が拡散したのですが、その打開策として当事者の知性と理性を通じて成熟が求められることを指摘しました。
それから2年がたち、「閉塞感」の残骸がいたるところで散見されるようになりました。

国外で言えば、象徴的なのがイスラム国の台頭です。
イスラム国に対する非難は世界中で渦巻いていますが、イスラム国はウェストファリア条約以降確立した主権国家体制といういわゆる”近代性”を否定する文脈の中で誕生しました。
つまり、グローバル化に対する一つの答えでもあるのです。
「私達は、カネや国家より信仰を重んじる。」
そう言っているのです。
それを「許し難い暴挙」と批判しても的外れです。
違うルールで互いを査定しているからです。
野球をしている選手にハンドとサッカーのルールで反則をとるようなものです。
一方は近代という欧米産のものさしでグローバル化をすすめ、一方は信仰というイスラム産のものさしで過去を取り戻そうとしているのです。
閉塞感の源である近代そのものを破壊するという極めてシンプルであるがゆえの暴力的な打開策こそ、(一部の)イスラムが出した解答だったのです。
それゆえ、今後、イスラム国はイスラム圏に留まることなく、シーパワー、ランドパワーに次ぐ第三極として全世界を巻き込む一大勢力となることは間違いないでしょう。

では、国内はどうでしょうか?
アベノミクスなどの政策により、グローバル化はさらに進展し、努力と報酬の間の相関関係が崩れ、自分の運命を自分でコントールすることは一層困難になりました。
それは、タイの洪水で工場が閉鎖して失業したり、円高の影響で企業が閉鎖したり、財政赤字で給料カットされたり、個人の努力とは無関係に、はるか遠くで会ったこともない人の行為や思惑が私たちの生活にいきなり死活的な影響をもたらす世界であることを意味します。
これは、もちろん国外でも共通することですが、そのような世界で人々は無力感に苛まれるようになりました。
当たり前ですよね。
全ての努力が、自分とは無関係のところで、水の泡になるのですから。
理不尽とさえ思うでしょう。
その揺り戻しかどうかは定かではありませんが、国内では、自らの全能感を取り戻す動きが多方面で見られるようになりました。

しかし、それが少々やっかいなのです。
一昔前なら、『ビリギャル』で一躍脚光を浴びたさやかちゃんが、「私のことをだめなやつとしか見ていないような気がして、そんな大人たちが嫌いでした。尖って反抗することで、傷つけられずにいられる気がしていました。」と話すように、大人に反抗することで自分の全能感を確認できました。
尾崎豊の世界観です。
でも、今はそうではありません。
繰り返しますが、はるか遠くで会ったこともない人の行為や思惑が私たちの生活にいきなり死活的な影響をもたらす世界なのです。
反抗しようにも、標的がいない。
これは後述するように、権威の失墜によって、絶対的な正義を喪失したこととも関係しているのですが、振りかざした拳を振り下ろす先が見当たらないのです。

だから、戦わなくなったのです。
反抗するには敵が必要です。
でも、もうその敵はどこにいるかさえわからない。
よしんば敵を発見できたとしても、勝てるとも限らない。
下手をうてば、一層の無力感に苛まれることになる。
負けるくらいなら、戦わないことをよしとする。
もし戦うならば、絶対に勝ちたい。
そこから導き出される答えは、簡単です。
全能感が折られる可能性をぜんぶ回避するか、自分が得意な分野で全能感を何度も確認するか、別人になればいいのです。
フロイトも「人生を担うためには、惨めさを軽減してくれる代償的な満足、惨めさを耐えられるものにする強力な気晴らし、惨めさを感じなくさせてくれる麻薬の3つ鎮痛剤が必要である」と述べており、これは、今私が出した解答とほぼ一致します。

『俺はまだ本気だしてないだけ』という映画を、このブログを書くにあたって鑑賞したのですが、主人公の42歳のバツイチ中年男大黒シズオがまさに現代を象徴するイコンでした。
まず、シズオは本当の自分を探すと言って会社を辞めてしまいます。
しかし、ゲームばかりの毎日を送り、同居する父親に怒鳴られてばかりいる。
そんな中、本屋で立ち読みしていたシズオは漫画家になろうと決意するというストーリーです。
会社を辞めることで全能感が折られる可能性を回避し、ゲームで全能感を確認し、漫画家という別人になろうとしたのです。
この映画の中で自らの無力を顧みることはほとんどありませんし、現状を自覚することもできていません。
なぜなら、それを認めてしまえば、本人も吐露しているように、現実に押しつぶされてしまうからです。
その姿は、グローバル化が分泌する無力感に、全能感で対抗しようとする時代性を投影しているように私の目には映りました。
シズオほど分かりやすく、全面的に全能感に依拠することは稀ですが、シズオを笑ってばかりはいられません。
なぜなら、現実に日常風景として、大なり小なり至る所でシズオが出没しているからです。


「便所メシ」ってご存知でしょうか?
ご存じない?
では、「ノーベン」はどうでしょうか?
これもご存じない?
ならば、「草食男子」はご存じでしょう。

食べ物の話をしているわけではありません。

男飯のような新しいジャンルの飯が誕生したわけではなく、「便所メシ」とは、便所の個室で食事をする行為の事で、学校や職場で、一人で食事をとる姿を見られたくないために、他人のいない場所で食事することを表した言葉です。
「ランチメイト症候群」とも呼ばれるそうですが、一定数の大学生がこの行為に及んでいるそうで、昨今大学でも問題となっています。
また、「ノーベン」も、もちろんノリベンのことではありません。
ノー勉強の略で、一切勉強をせずに試験に臨む行為の事で、「ノーベン」で高得点をとることは、学生たちにとって勲章です。
逆に、猛勉強して点の悪い学生は嘲笑の対象となります。
「草食男子」は2009年の流行語にもなった言葉なので、説明の必要もないかもしれませんが、念のため。
性格がおだやかで協調性に富み、恋愛やセックスには積極的でない、主に40歳前後までの若い世代の男性を指す言葉です。
記憶をたどれば、一人くらいは該当する人を思い出せるのではないでしょうか?
さらに、これらの最終形態が「引きこもり」です。
また、自分たちの情緒の世界のなかに完結して生きているという点では、『絶望の国の幸福な若者たち』で古市憲寿が指摘した親しい仲間たちと小さな世界で日常を送る日々に幸福を感じるコンサマトリーなムラムラする若者の心性と共通しており、そこには人数が1人が複数かの違いがあるだけです。

なぜ、自己充足的な行為がここまで広範に見られるようになったのでしょうか?

それは、先の議論に戻って、全能感が折られる可能性を回避するためだと考えられます。
他者との関わりを回避する、本気で勉強しない、本気で恋愛しない、何にも真面目に打ち込まない。
自分が傷つくかもしれない状況や自分にあまり価値が無いとわかってしまいそうな挑戦を避け続ければ、いつまでたっても全能感は失われません。
というのも、もともと子どもには全能感が備わっていて、それが思春期のトライアンドエラーや人間関係のなかで、自分が思うほどオールマイティではないという事実に直面し、その直面によってゆきすぎた全能感がなだらかになっていくからです。
つまり、片田珠美の『一億総ガキ化社会』というネーミングがまさに慧眼ですが、ガキのまま成長していないということです。

もし、自分の全能感が失われそうな試験・競争に直面したとしても、「俺はまだ本気だしてないだけ」という魔法の言葉を唱えればよいのです。
たった一言で、全力を出してないから失敗した(=全力で挑戦していれば成功していたに違いない)と自己弁解し、全能感の喪失を回避できるのです。 
全能感を手放したくない人達にとって、トライアルをクリアする確率を1%でも高めるよりも、自分自身の全能感がひび割れるリスクを1%でも低くすることのほうが死活問題なのです。
そして、それこそグローバル化がもたらす無力感に対抗する自己防衛策に他ならないのです。

じゃあ、誰もが逃避行動に走るかというと、そうではありません。
ある意味、逃避行動に向かう方が健全と言えるかもしれません。
厄介なのは、自分が得意な分野で全能感を何度も確認するパターンの方です。
得意な分野というと、ずいぶんオブラートに包んだ表現ですが、あけすけにものを言うと、他者を責め立てることで自己愛的な全能感を守ることを意味します。
つまり、絶対に負けない分野で圧倒的な勝利を収めることで全能感を確認しているのです。

その典型的な例が、ヘイトスピーチやクレーマー、ツイッターなどにみられる炎上事件です。
ヘイトスピーチは、出自という自分ではどうすることもできない人間属性を政治問題などにすり替え、他民族を責め立てる行為ですが、責め立てる側の優位性は、日本人であるというたったそれだけの事実にしか依拠していません。
ですが、ただ日本人でありさえすれば何の努力することもなく、容易に絶対的な優位性を獲得することができるので、一部の人をあれほどまで熱狂させ、攻撃的にさせるのです。
クレーマーについても、何を言っても誰からも効果的な反撃がなされないことがわかっている安全地帯からしか攻撃はおこなわれません。
まだヘイトスピーチやクレーマーは生身の人間が介在するぶんにはましですが、ツイッターに関しては、自分の言いたいことを一方的に相手に送りつけて、嫌になったらいつでもやめられ、巨大な量の情報を操作することによって、現実の枠組みも制約も越えた無限のパワーを手に入れた気分になり、まるで自分が神になったかのように有名人のブログやツイッターを攻撃し、炎上を引き起こすのです。
ポイントは、全能感が傷つく可能性の高いところには手を出していないことです。
安定確実に優越性が示せるフィールド、反復的に自己評価を確認しやすいフィールドを、無意識のうちに選んで、自己防衛しているのです。
まるでハリネズミのようですが、権威の失墜によって、絶対的な正義がなくなり、それぞれの個人が自分勝手な正義を振りかざしやすくなったことによって、ますますハリが研ぎ澄まされたのです。
その成れの果てが秋葉原無差別殺傷事件と言ってもよいでしょう。
犯人は、不本意な現在の境遇に至ったのを「親のせい」「社会が悪い」と責任転嫁したりして、復讐願望を募らせた結果、あの凶行に至ったのです。

そして、その過剰なストレスを他者に向けることもなく、逃避することもなく、解消する方法が別人になることです。
別人になる方法は2通り考えられます。
1つは、芸能人を中心に蔓延する覚せい剤や頻繁に事件を引き起こすようになった危険ドラッグなど、薬物の力を借りて現実の無力感に対抗する方法です。
突如、社会問題化した感のあった危険ドラッグですが、そこには、人をそこまで追い詰める社会背景という必然性があったのです。
ただ、ドラッグは日本においては敷居が高いのは事実です。(アメリカなどでは老若男女が使用していますが・・・)
そこで、手放せないのがスマホです。
これが2つめの方法です。
マイケル・ムーア監督の映画『華氏911』には、イラクに侵攻したアメリカ軍の兵士が「戦車の中ではガンガンにロックをかけていた」と証言するシーンがあります。
「刺激が強烈すぎる音楽に体を任せていると、本当に何でもやってしまえという気持ちになる」と兵士は語っています。
音楽は付き合い方を間違えば、破壊的な無敵感を身にまとうことができる。
つまり、麻薬と同じ効果を持つのです。
クラブとドラッグの親和性が高いのも、そういう理由からでしょう。
日本では、戦車の中で大音量で音楽ということはありませんが、四六時中、スマホにイヤホンをつないで、音楽を脳内に流し込み、興奮状態を人為的につくりだす(いわゆるテンションを揚げるという行為)若者が少なくありません。
女子高校生の1日の携帯電話の平均使用時間は7時間という結構ショッキングなニュースが報道されましたが、スマホを片時も手離せなくなったのは、こうした高揚感を演出し、いわゆる戦闘力を高めることで、仮想的に別人になることで現実に対抗しているだと思います。
また、アバターゲームや裏垢のように、ネット空間に新しい人格を立ち上げ、バーチャル・リアリティーの中で全能感を確保することも、もう珍しくなく、スマホはその回路をつなぐ重要なツールの役割を果たしています。


2012年1月6日のブログの結びで、

「あけましておめでとうございます」と言いたいところなのですが、”閉塞感”の時代はしばらく続くと思います。
しかし、自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪が時代の閾値を超えたとき、大きなムーブメントが起きるはずです。
その兆しは、マラソンやボランティアのような”閉塞感”を生み出す自分という壁を顕在化させ、壁に体当たりする行為がかつてないほどポピュラリティを得たことに表れています。
自分という檻から抜け出すには、知性を働かせるしかありません。
「知は一つの精神がおのれの外部にある別の精神に触れるのに使用しうる唯一の手段である。」(レヴィナス
市場という檻から抜け出すには、理性を働かせるしかありません。
「理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。」(カント)
知性が異質な世界を感知させ、理性が世界を現実化する。
自己の相対化なくして”閉塞感”を語るなかれ。
時代は、成熟を求めている。
「未来とは他者なのだ」

と締めくくったのですが、予想通り「閉塞感」は閾値を超え、デフォルト化したと言っても決して大げさではありません。
予想外だったのは、「閉塞感」に対抗して檻を破るのではなく、檻の中に籠るというムーブメントの方が大きかったことでした。
しかし、行きつく先は2年たっても同じでした。
成熟すること。
何万語という言葉を費やさずとも、結論は成熟という2文字に凝縮されています。
子どもが子どものままにとどまっていることを許した共同体は人類史上一つも存在しません。
大人になる(成熟する)というのは、「何でもできるようになること」ではなく、むしろ「何でもできるわけではないということを受け入れていく」ことなのです。
全能感を手離すことから始めるしかない。
その第一歩が、子どもを成熟させるために何が必要か、それを問うことです。
そう問うたときに、「ほんとうの大人」であれば、自身の未熟を深く恥じるでしょう。
大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。