父の不在

「ツリーオブライフ」という映画をみてきました。
舞台は、おそらく1950〜1960年代のアメリカ。
主人公は、父の圧倒的な支配に恐怖と反発を感じる中学生。

今から50年ほど前は、アメリカに限らず日本でも圧倒的な存在感を保持していた。
それが、ここ数十年であっという間に瓦解した。
今の世界には、父はいない。

というのも、根も葉もない言い方だが、父はいなくても子どもが育つことがわかってしまったからだと思う。
対照的に「奇跡」は、ある日本の現代の離婚家族を描いた映画だが、離婚した父は愛情あふれるマザーシップを発露していた。
つまり、母性は男でも代用できるが、母性がなければ子どもは育たない。
子どもは支配者はいなくても育つことはできるが、庇護者がいなければ育つことはできない。
虐待の例をだすまでもなく、子どもは大人の庇護なしには生存することができない。
ただし、母性だけでは生物学的な意味での成長はできるが、人類学的な成熟できない。
なぜなら、「父」とは「世界の意味の担保者」のことだからだ。
世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級者だ。
つまり父性の欠如は、ルールを失うことだ。
だから、世に子どもなるものが増えた。

また、グローバル化も無縁ではないと思う。
というのも、ローカルな世界は閉じられ、父の全能性に支配されており、価値の度衡量は父のみである
ところが、グローバルな世界に接続したとき、父の全能性は揺らぐ。
父の全能性さえ、貨幣という度衡量で測ることできてしまう。
(当然、その結果は裏切られることになる)
そこで、貨幣こそ力だと価値が倒錯する。

あるテレビ番組で実施されていたアンケートでは、
子どもの意見「大人なんて簡単にだますことができる」 50%
大人の意見「子供は投資だ」 30%
というシビアな数字が発表された。
それはコインの表裏のような関係だ。

今の子どもたちは「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでる。
このようなシンプルな原理の下では子どもたちは成熟できない。
だから、成熟することを止めてしまったのである。

一方の、父がかろうじて存在した「ツリーオブライフ」では、父の教化によって、私は今あるような人間になったという話型で自分自身を守ろうとした。
世界は「父」を呼び出すことで一気に合理的になり、さまざまなものが名づけられ、混乱は整序される。
けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出しているうちに、「父=システム」はますます巨大化し、遍在化し、全知全能のものになり、人間たちを細部に至るまで支配し始める。
主人公が真に解放されたのは、「私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。」と断言したときだった。

父は、不在によってその存在を確認されるものではなく、乗り越えることによってその存在の大きさに気付くものだが、そうした物語が枯渇して久しい。
これから先、「ツリーオブライフ」のような物語が大量生産されることは、火を見るより明らかだ。
さもなければ、人類は成熟できないのだから。