街場の家族論

何度も言っていますが、教育の本義とは、人を成熟に導くことです。
そして当然ながら、成熟するとは、カネを稼ぐということとは違います。
成熟とは、自らの使命を自覚し、弱者をいたわり、人を支え、
社会へのメンバーシップを発揮することです。

ところが、今の子どもたちは
「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでる。
このようなシンプルな原理の下では子どもたちは成熟できません。
だから、成熟することを止めてしまった。
いや、正確には成熟することを拒んでいるかのように思える場面に多々出くわします。

それに拍車をかけているのが、大人たちの無自覚なシステムへの追随です。
会社や組織や国家に自分の大切な魂を預けてしまったため、学校現場は、思考停止状態です。

教育のアウトカムのもっとも本質的な部分は
数値的・外形的に表示することができないことなど自明の理だが、
勉強をしない生徒に向かって投じられる言葉は
「ノート提出しなければ、マイナス10点!」
「欠席あと1回で、進級できへんで!」
「私語で減点1点!」などなど。
生徒たちも、当初はこうした数値化という横暴に
暴言・無視・反抗・揚げ足取りなどで必死に抵抗するが、
自他を問わない無惨な敗戦を目の当たりにすることで、
システムに従順となり、点数さえとれればいいという単一原理を身につけてしまうのです。
しかし、それは成績だけに限りません。
気分が悪ければ、保健室に行って熱を測って、証明しなければならないし、
風邪でテストを欠席すれば、医師の診断書が必要だ。
言葉より数値への深い信頼、いや崇拝といっても、言い過ぎではないと思う。
ある意味、これらは人間に対する暴力だろう。

子どもたちは、隅から隅まで網が張られている記号化された世界しか知らない。
まるで映画『トゥルーマンショー』のようだ。
昔はこうじゃなかった。世界はもっと小さかった。
手応えのようなものがあった。自分が今何をやっているかがちゃんとわかった。
でも今はそうじゃない。


そうした暴力に対抗するために、
大人たちは、夢を語り続けなければならない。
夢が必要なのは、子どもの方ではなく、われわれ大人達の方なのです。

欠席をした生徒に向かって語るべきは、欠席時数ではなく、「信頼」の話だろう。
私語をした生徒に向かって語るべきは、より大きな声で私語をかき消すのではなく、話し手に対する「敬意」の話だろう。
体調の悪い生徒がいれば、真っ先に保健室に行ったかと聞くではなく、顔色を見ればよかろう。

デジタルな数字が変わることでしか、子どもの身体能力の変化が「わからない」、いや「分かろうとしない」ことはきわめて危険な徴候だと私は思っている。


「授業を聴いているうちに、すとんと気持ちが片付きました」とか
「眼からウロコが落ちました」とか
「矢も楯もたまらず身体を動かしたくなりました」とかいう
教育効果があってもいいはずだと思っているのは私だけなんでしょうか。

数値に寄りかかることで、システムは強化され、“大人個人”の責任は軽減されるだろう。しかし、“大人全体”が担うべき責任は、消えない。いつかどこかでツケを払うことになる。
語るべき理想を大人が持たなければ、子ども達は成熟できないし、それは早晩、教育は崩壊するだろうことを暗示している。なぜなら、上述したとおり教育はすでに深く経済合理性に犯されてしまったからです。


では、もう打つ手はないのでしょうか?

最後の希望は、家族しかないと思います。(家族もかなり深く傷ついていますが・・・)
家族は、本来「弱者ベース」で設計されており、
経済合理性を超える原理の元に運用されている。
だからこそ、カウンターパートとなりうる可能性を大いに秘めているのです。

家族制度の根幹は、家族の儀礼を守ること、それだけです。

朝起きたら「おはようございます」と言い、誰かが出かけるときは「いってきます」「いってらっしゃい」と言い、誰かが帰ってきたら「ただいま」「おかえりなさい」と言い、ご飯を食べるときは「いただきます」「ごちそうさま」と言い、寝るときは「おやすみなさい」と言いかわす。家族の儀礼のそれが全部です。それがクリアーできていれば、もうオッケーです。

家族というのは、起源的には「礼」を学ぶための集団だろうと考えられます。「そこにいないひと」の「不在」を痛切に感知する訓練が「礼」の基礎となるからです。それは死者の弔いというかたちをとることもあるし、やがて家族のうちの誰かから生まれてくる子どもへの期待というかたちをとることもある。「もういない人」の不在と「まだいない人」の不在をともに欠如として感知する人々が「家族」を構成する。


家族は、過去・現在・未来の他者との回路を用意する。
しかもそれは対価を要求しない、無尽蔵な愛を水脈とする。
さらに、儀礼を通じて、メンバーは、それぞれのメンバーの微細な変化を感じ、そのまなざしは他のメンバーの安らぎとなる。
歴史的文脈に身を置くことで、自らの使命を自覚し、
弱くても生き延びることができる環境が整うことで、弱者をいたわり、人を支え、社会へのメンバーシップを発揮される。ザッツオール。まさに、成熟なり。

映画『ゴッド・ファーザー』では、食事のシーンと、父との挨拶のシーンが、不自然なほど多いが、ドン・コルレオーネは知っていたのです。儀礼こそ家族の紐帯を強める制度だということを。

ただしそれだけではありません。
儀礼以外に、人を成熟に導くために必要なことを、またしても『ゴッド・ファザー』が教えてくれています。
「イニシエーションの年齢に達したら、子どもを家から出して、新たな家族を作るように仕向けること」、それが親の仕事だということです。
かわいい子には旅をさせよとはよく言ったものですが、アルパチーノこそ成熟のロールモデルです。それを導くのは、もちろんドン・コルレオーネです。
いつまでも父親の元にいた兄のソニーは成熟することができず、海兵隊に志願し、親元を離れたアルパチーノはファミリーを見事に守り、継承することに成功した。つまり、“家を出る→人を殺す→結婚する→子どもを生む→後継者を見つける→後継者に乗り越えられる”こと。
これこそ、人を成熟に導く道程なのです。自余のことは副次的なことにすぎません。



最後に村上春樹エルサレム賞のスピーチを採録します。

「今日、私がみなさんに伝えたいことは1つです。それは私たちの誰もが、国籍や人種や宗教の違いを超えて、人間であるということです。固い壁、つまりシステムというものに直面している、脆い卵だということです。どうみたって、私たちには勝ち目がありません。壁はあまりにも高く、強く、そして冷たい。私たちに勝てる見込みがあるとすれば、互いの個性を、つまり自分自身も他者も互いにたったひとりのかげがえのない精神を持つ者であると認め合い、互いのこころを結べ温かさを得られると信じることによってのみ、それは可能になるのです。このことを少し立ち止まって考えてみて下さい。私たち一人ひとりに、しっかりと存在する精神が宿っているのです。そのようなものは、システムにはありません。私たちは、システムに搾取されてはいけません。システムを暴走させてはいけません。システムが私たちを作ったのではありません。私たちがシステムをつくったのです。」


ドン・コルレオーネを見習え。思考を停止してはならない。習慣や行動の変化は、深く認識した者だけに訪れる。