閉塞感の時代

へいそく‐かん【閉塞感】 閉じふさがっている感じ。また、比喩的に、閉じふさがったように先行きが見えないさま。


最近、この”閉塞感”という言葉をよく耳にするようになりました。
いやそれどころか、耳にしない日はないと言っても過言ではありません。
さきの大阪市長・府知事W選挙でも、大阪維新の会の勝因には、必ずといっていいほど”閉塞感”というワーディングが用いられました。
「閉塞感を打破するために、既得権益を壊し、全てを一新させそうとする橋下氏が支持された」というのが、一般的な語り口です。
これは、政治的なトピックに限られたものではありません。
経済について語るとき、メディアの論調の底流に、”閉塞感の打破”という不文律がすっかり定着した感があります。
元来閉塞的な教育現場も一層どんよりとした重い空気で覆われています。
日本全国を見渡しても、”閉塞感”を感じない場所はもうどこにもないと思われるほどです。

この”閉塞感”という言葉、見ているだけでも息苦しく、いかにも八方ふさがりという気持ちにさせます。
でも一方で、何でもかんでも十把一絡げに”閉塞感”のせいにしまうのは、乱暴だし、無責任だという気持ちもあります。
世間では、いかにも”閉塞感”という魔物が襲来したかのようなものものしさですが、皮肉にも文字面通り、所詮人間の意識が作りだしたものに過ぎません。
別に「打破」とか「突破」なんていう革命的な仰々しいやり方じゃなくて、考え方を変えるという穏健な方法で、”閉塞感”とうまく付き合う方法がまだ残されているはずです。(きっと)

閉塞とは閉じて塞ぐことなので、”閉塞感”とは出口がふさがれて先へ進みようがない状態を指します。
つまり、いきなりファンダメンタルなことをいえば、出口がないことが問題なのです。
出口という言葉は、今自分の存在する空間や時間とは、異なるそれらがあるという前提の元に成立しています。
ということは、「出口がない」とは外部につながる扉が閉じられたと解釈するのが一般的でしょうが、こうも考えることができないでしょうか。
「出口がなくなった」のではなく「外部そのものが消えた」と。
今日の私は冴えているようです。
これは、かなり核心をついたアイデアです。
「出口がなくなった」のではなく「外部そのものが消えた」のだ!

当然ながら、そこではケータイを介したネットという仮想メディアが、深く関与しています。
ネットは、新聞やラジオやテレビと異なり、自分がみたいと思ったコンテンツしかみることができないメディアです。
そして、「6次の隔たり」理論が証明しているように、何億、何十億もの人間の集合を、個人が直接に実感できる程度の関係の隔たりの中に収めることを可能にしました。(友達の友達の友達の友達の友達の友達をたどれば、アメリカ大統領だろうが、マツコデラックスだろうが、誰とでもつながることができます。)
つまり、一見開放的ななりをしていますが、ネットは本来自己閉塞したメディアなのです。
それは、ケータイで形成される人間関係は自分で操作しやすく、ひとたび電話帳から削除されてしまうと、世界から切り離されてしまうという特性とも無関係ではありえません。
だから、ケータイ依存においては、相手とつながり続けることから得られる快楽よりも、それが切断されることに対する不安の方が強くなる傾向があります。
即レスなんていうナンセンスな行為は、まさにその不安の裏返しです。
ケータイは異質な人々へと関係を広げていく装置としてではなく、ジャーゴン(仲間内でのみ通じる言葉)を媒介とする地元つながりに典型的に見受けられるような、同質的(村的)な人間関係をうまく営んでいくための関係性を継続することをメイン業務とする装置なのです。
「この言葉が通じない人は仲間じゃない」という村八分的な他者を排除するメカニズムを内包した装置が開放的であるはずがありません。
そこにたちこめる”閉塞感”は、近年若者の間で急速に流通している「リア充」という言葉に凝縮されています。
リア充」とは、現実の世界が充実している人や状態のことを意味し、例えば恋人と映画を見に行ったり、部活などいい結果をだすことなどを指します。
基本的に彼らのリアルは飢餓状態なので、たまにリアルが満たされた時にだけ、「リア充」というフレーズを使用することができるようです。
リアルでないことを常態にしてしまうほど、リアルはもう回復不能なまでにネットに表象される虚構によって激しく侵食されています。
リアルが不安定であればある者ほど、リアリティの撤退という恐怖に怯え、学業よりリアリティの確保を優先させるようになり、その後は「勉強しない」という事実から自己有能感を得るようになります。
自分の世界観を相対化しうるような異質な人々や知識と出会う機会をほとんどもたないということは、自らが世界の中心であると感じられてしまうほど内閉化した世界しか構築できないということです。
そういった世界の住人は、自分の拠り所を自らの身体の中にしか見いだせなくなってしまう。
しかし、身体の中にある”感覚”というあやふやで、きまぐれなものを拠り所にしたため、きわめて脆弱な自己肯定感しか得られません。
そこで、自分という存在を肯定してくれる保証が必要となります。
ところが、未熟なガキんちょを肯定してくれるのは、親と市場ぐらいです。
肯定してくれると思い込んでいる友達という人間関係は安定性を欠き、その場の一時的な雰囲気だけに流されやすくなっています。
また、安定した秩序がなく、その場その場で成立する感覚の共有だけを頼りにつながっているため、その感覚の一体感を確認しあうためにも、むしろ積極的に互いの感覚を高揚させることを求め合うようになります。
そうした感覚的な異質を認めない同調圧力が閉塞感を強めているのです。
やっかいなことにそのことによって、自分のふるまいや態度に対して、言葉で根拠を与えることにさしたる意義を見い出せなくなったようです。
彼らが発する言葉は、極めて感覚的、いや動物的と表現したほうが適切でしょう。(昼休みや、授業崩壊している講座はまさに動物園です)
完全に市民権を得た「ムカつく」も、動物化を示す言葉の一種です。
むかつくとはそもそも自分自身の生理的な反応をさす言葉であって、「〜に対して」という対象を必ずしも前提としない自己完結した言葉でした。
それが、判断基準の身体感覚化によって、テストの点がわるくてムカツク、悪口言われてムカツクという心の動揺が根拠が全く異なるはずの感情をムカツクの一言で表現するようになりました。(それは、派生してありのままの自分を否定(注意)されると相手を「きしょい」と罵るというパターンもあります。)
また、「キレる」という言葉もそうです。
自分から能動的にキルのではなく、あたかもの脳内の欠陥がプチッと断線するかのように、自らの意志とは無関係に生理的にキレるのです。
それは、「キレた後のことに対しては自分は何も責任を負えないよ」という強いメタ・メッセージを発しています。(同じく派生言語として、「ダルい」・「イライラする」は制御不能の合図です。)
これらに親和的なメディアツールがツイッターです。
ツイッターのつぶやきは140字を限界としているため、論理的な説得や有益な知識の伝達には限界があり、瞬間的にひとを驚かし、動物的に思わずリツイートボタンをクリックしてしまうような発言が拡散する傾向があります。
いまやネットは、そういった動物的な言葉で埋め尽くされるようになり、それは現実でも同じです。(「ムカつく」、「キレる」といった言葉を聞かずに過ごせる平穏な日々など皆無です)
なぜなら、言葉は相対化される危険をつねに孕んでいますが、こうした生理的な言葉によって意味づけられる以前から存在する身体感覚は、相対化の危険にさらされることがないからです。
一見攻撃的にみえますが、イタリアサッカー並みに超守備的な言葉なのです。
こうした言葉をリフレインすることで、本能的に自分自身を守ろうとしているのでしょうが、逆に自分自身の首を絞めてしまうことになるのです。
つまり、「善いこと」という社会的な基準から「いい感じ」という自分の生理的な感覚や内発的な衝動へと評価基準を変転させることで、ますますリアリティは辺境に追いやられ、虚構的な自分が膨張し、動物化に象徴される自分という檻に閉じこめられた”閉塞感”に苛まされるようになっていくのです。


人間を動物化という鎖でがんじがらめにしているのが、市場です。
いまや市場は文化・社会・政治のすべてを覆い尽くし、パブリックスペースのほとんどが消費空間と化しています。
それは生活がたんなる消費でしかなくなってしまったということですが、哲学者のラッシュは、「商品の生産と消費中心主義は、自己の認識ばかりではなく、自己の外にある世界の認識まで変えてしまう。これらのものが作り出しているのは、鏡や架空のイメージや、どんどんリアリティとの区別がつかなくっていくイリュージョンでできた世界なのだ。鏡の効果は主体を客体にする。と同時に、客体の世界を自己の延長、あるいは投影にしてしまう」といっています。
まさに先ほどの動物化と同じロジックで自意識ばかりが拡大する内閉化が進行しています。
さらに、消費活動は原則的に選択という行為によって営まれています。
そこでは、たとえどんな選択肢を選んだとしてもそれに代わる選択肢の存在がつねに意識され、「今選んだものは本物ではないかもしれない」という意識がつきまとうことになります。
つまり、消費空間に支配されることで、可能性を今から切り開いていくのではなく、すでに開かれていると感じられることによって、現実世界のリアリティは大幅に奪われることになるのです。
さらに、グローバル化が事態を加速させます。
特に、地方社会において固有の地域性が消滅し、大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、ファストフード店レンタルビデオ店カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並ぶ風景が全国一律で展開されるようになりました。
つまり、全国何処にいようが、同じ生活環境を維持できるということであり、外部そのものが消失され、もうアクセスすらできなくなりました。
しかも、地方では車が欠かせない生活手段となっているため、ドアトゥドアで自分のまま、一切外部と接触せずとも生活することが可能なのです。
どこまで行っても自分、まるで自分の脳みその中をドライブしているようなものです。
また、マクドナルドのある国同士は戦争しないというデルの「紛争回避論」があるように、近代資本主義が成り立つには、契約の絶対・所有権の絶対が必要です。(マクドナルドはグローバル化の象徴であって、グローバル化の価値観は、問題の解決方法として「戦争」を好まない。なぜなら契約が守らなければ、商品と資本の流通がスムーズにいかないし、所有権が絶対でなければ安心して投資は行なえないし、目的合理的な経営もできないから。)
その結果、コンプライアンスを遵守しないオリンパスのような企業は、悪の権化のようにこき下ろされ、ルールの絶対王政化に歯止めがきかなくなりました。
これはありとあらゆる空間にくまなく浸透し、禁煙ファシズムしかり、島田紳助事件の暴力団排除しかり、飲酒運転が自転車にさえ適用されるといったKYに象徴される目には見えない空気に支配されるようになりました。
ルールの自明性を疑うという行為が存在することすら忘却され、思考は停止し、間段なく”閉塞感”がつきまとう、それはまるで自分自身の影に怯えるゲド(@『ゲド戦記』)そのものです。


国とか社会とかいう大きなくくりで”閉塞感”を取り除こうとすること自体もうナンセンスです。
なぜなら、”閉塞感”そのものを作りだしているのが、ご覧のとおりまさに当の自分自身だからです。
一人一人がそれぞれに出口を見つけ出す(作り出す)能力を要求されているのです。
「あけましておめでとうございます」と言いたいところなのですが、”閉塞感”の時代はしばらく続くと思います。
しかし、自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪が時代の閾値を超えたとき、大きなムーブメントが起きるはずです。
その兆しは、マラソン(私事ですが、奈良マラソンは4時間31分22秒で完走しました)やボランティアのような”閉塞感”を生み出す自分という壁を顕在化させ、壁に体当たりする行為がかつてないほどポピュラリティを得たことに表れています。
また、歴女大河ドラマ人気にみられる歴史ブームも、時間軸を引き延ばすことで自己相対化を企図した現象ではないだろうか。

自分という檻から抜け出すには、知性を働かせるしかありません。
「知は一つの精神がおのれの外部にある別の精神に触れるのに使用しうる唯一の手段である。」(レヴィナス
市場という檻から抜け出すには、理性を働かせるしかありません。
「理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。」(カント)

知性が異質な世界を感知させ、理性が世界を現実化する。
自己の相対化なくして”閉塞感”を語るなかれ。
時代は、成熟を求めている。
「未来とは他者なのだ」