教育の原点回帰(承前)

前回は学習を自己利益で動機づけるとたいへんなことになるといいました。
その理路から説明します。
たしかに子供たちは「努力」しています。
でも、それは学習努力じゃありません。
「最低の努力で最大の結果を出す」ための、費用対効果のよい勉強の仕方をみつけるために知恵を絞った、ということです。
「勉強しないで、勉強したのと同じ結果が得られる、もっと楽な方法」を見つけ出すための努力です。

これはまさしく消費者そのものです。
子供たちは賢い消費者としてふるまうようになったのです。
最少の学力、最少の学習努力で最高の教育商品を手に入れた子供が「最も賢い消費者」であり、費用対効果のことだけ考えるようになりました。
授業に出るのは出席日数ぎりぎり。
授業も遅刻ギリギリで教室に滑り込む。
授業中もこれ以上意識を散漫にしては理解できないギリギリまで意識の集中を控える。
力が尽きてしまったかのように机にへばりついた軟体動物たち。
テスト前になるとテスト対策プリント(今までの授業を聴かなくても、このプリントを完璧できれば赤点にならないプリント)を要求する。
試験では赤点ぎりぎりを狙ってくる。
赤点をめぐるデットラインの攻防の熾烈さといったら、ペナントレースをはるかに凌ぎ、赤点ぎりぎりを狙うための努力の真剣さには、感動すら覚えます。
まじめな子もいれば、やんちゃな子もいるのは今も昔もかわりませんが、成績で数値化すると、極端に”2”が突出したいびつなグラフにしかならないのが近年の顕著な傾向です。
つまり、この世代に共通するマインドとして根付いてしまったことの証左です。
もはや30点で済む試験のために、50点分、ましてや80点分の勉強をするのは、恥なのです。
悲しいことに、通知表に印字された”5”はバカの烙印となってしまったのです。

当然ながら、それは、いまや学校が経済に包囲されてしまったことと深く関係しています。
経済主体の子供がそこに確立され、自らの利益のために勉強するのだという考えが一般化し、人間に必要なものは進路につながる交換価値としての学力と見なされるようになったのです
そうなった時、子どもたちは勉強しなくなった。
経済的な豊かさが、全能感を保持したままの「自分」に閉じ籠り、社会的な「自己」に飛躍しなくても生きることを可能にさせたからです。
自分が必要と思うものだけを学び、自分も納得できる合理的な取引をするだけなので、生徒の本体は変わらなくなった。
そのことは今の時代を覆う閉塞感と無関係ではありません。

ところが、3.11が起きました。

市場経済と対立する概念を贈与経済とするならば、その贈与経済がたちあがる兆しが至る所でみられるようになったのです。
いわゆる「助け合い」の精神です。
「純粋な贈与」は、通常ならほぼ家族の範囲内でおこなわれるものですが、災害などがおこると人々の贈与衝動とでもよぶべきものが刺激されて「純粋な贈与」の領域が拡大し、もともと「義務的な贈与」の領域に属していたところまで「純粋な贈与」の領域に塗りかえられる。
経済的合理主義が後退し、贈与的相互扶助原理がその間隙をうめる。
そこには常に「ゆらぎ」があります。
カネと時間といった効率という単一の尺度ではなく、ひとつのかたちに固まらず、たえずゆらぐ。
私たちはそのような複雑な構造物としてのおのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせた共生が赤ん坊のようによちよち歩きを始めたのが、3.11以後の世界です。

教育や学校を「知識を学ぶ自己利益の場」でなく「人間として成長する公共利益の場」として再構築するチャンスは今しかありません。

そのためには、学びを交換ではなく贈与のかたちで構造化しなければなりません。
なぜなら、等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しないからです。
というのは、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明することができるようになるということだからです。
「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」が手渡されたと思わなければ、その意味を解明するために「成熟しなければならない」という強い決意がうまれません。
つまり、教育は「教える側がまず贈り物をする」ところから始まるのであって、基本的に贈与活動なのです。

そして、その原初の一撃はどのような返礼を以てしても償却することができません。
それゆえ、返礼義務は「贈与者」に対して、債務の相殺を求めてなされることはありません。
この被贈与者が贈与者に対して感じる負債感は、自分自身を別の人にとっての「贈与者」たらしめることによってしか相殺できない。
自分が新たな贈与サイクルの創始者になるときはじめて負債感はその切迫を緩和する。
最大の親孝行が子どもを育てることというのは、そういうことなんです。
そのようにして、贈与はドミノ倒しのように、最初に一人が始めると、あとは無限に連鎖してゆくのです。

すると、贈与した者は気づきます。
人間が努力をするのは、それが「自分のため」だからではなく、「他の人のため」に働くときだということに。
ぎりぎりに追い詰められたときに、それが自分の利益だけにかかわることなら、人間はわりとあっさり努力を放棄してしまいます。
「私が努力を放棄しても、困るのは私だけだ」からです。
でも、もし自分が努力を止めてしまったら、それで誰かが深く苦しみ、傷つくことになると思ったら、人間は簡単には努力を止められない。
自分のために戦う人間は弱く、守るものがいる人間は強い。
「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「《彼ら》のためにも、オレはこんなところで死ぬわけにはゆかない」と思う人間では、ぎりぎりの局面でのふんばり方がまるで違う。
自分のために、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう。
「まあ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止る。
でも、他人の人生を背負っている人間はそうはゆかない。
人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させるのです。


そうした学力を取り戻す必要があるのではないでしょうか?
自分自身の生きる知恵と力を高めていって、共同体を支え得るだけの公民的成熟を果たす力を。
そのためには「教育の受益者は、親でも、企業でも、本人でもなく、共同体そして未来である」という合意が必要です。
それこそ教育の原点回帰なのです。

という熱い想いでリバイバルプランを策定したのですが、理解されず廃案となりました。
道のりはなかなか険しい。