いじめは我々をアンガジュする

職業柄大きな声では言えませんが、「いじめはなくならない」「いじめはどこでも起きる」とはよくいったものです。

“いじめ”という魔物は、群れの中でじっと息を潜めています。
学校はもちろんのことながら、会社でも、地域共同体でも、あまつさえ家族にさえ牙をむく。
メディアは「いじめはあってはならない」という絶対値を振りかざしますが、“いじめ”は対等な者同士で形成される全ての人間集団に内包される毒であり、特効薬はまだ発見されていないし、この先未来永劫発明されることはないでしょう。(特効薬を発明できたら、iPS細胞どころの騒ぎではない)
事実、古今東西、ありとあらゆる国家や社会の中で、ありとあらゆる国家や社会の中で、“いじめ”を完璧に追放した社会があったという話は一例もありません。
だから、我々現場の下々の者達は、望むと望まざるにかかわらず、汗をかき、ツバを飛ばし、悩み考え、“いじめ”というぬえのような魔物に対峙せざるをえないのです。
もちろんのことながら、それは教育困難高とよばれた前任校でも、進学校に位置づけれる現任校でも同じでした。

ところが、教育現場では、生徒と向き合うだとか、夜遅くまで学校に残って仕事をすることが美徳のように持て囃され、主体性はないが、やる気だけある教師が、現場を混乱におとしめ、魔物を野放しにしてしまっています。
そういう教師のほとんどが、その場かぎりの場当たり的な対処療法に終始し、同じ問題が何度も発生することになるのです。
一人一人の生徒と向き合うといっても、キャラ化した現代では、キャラ特有の行動・思考パターンを踏襲しているので、全てを知る必要などないし、逆に、問題を複雑にすることだってありえます。
汗をかく必要は否定しませんが、もっと頭を使えと言いたいのです。
教師は、結論をもって、生徒と向き合う必要があるし、予断は必ずしも悪ではありません。
“いじめ”に関してもそうです。
熱心にいじめのケアをすることも大切ですが、一度受けたいじめの傷は決して消えることはありません。
しかし、いじめを予見することができれば、誰も傷つくことはありません。
予見するには、その場の人間関係や事実関係などの個別性ばかりに焦点を当てるのではなく、いくつかの問題事象を比較し、共通するファクターから再帰因子を抽出すればいい。
そうした知的習慣を持たなければ、今後一層混迷するであろう教育現場に一生振り回されることになるのは火を見るよりも明らかです。
教師がもっと理性的であるべきなのです。
人間の心の働きを知り、わたしたちの心の中にある人間性の本質がどのようなものであるか、きちんと理解する、人間とは何かという事に対しての根源的な問いを持ち続けること。
それこそが知性の源泉であり、教育現場に知性を取り戻すことは、一見遠回りのようですが、教育再生の王道であり、もしかしたら唯一無二の方法なのかもしれません。


話がいじめから逸れたので、強引に戻すと、これまでの経験からいじめには3種類あることがわかりました。(つまり、これで原因が分かるので予防できる)

3種類とは、
1)供儀型いじめ
2)排除型いじめ
3)搾取型いじめ
である。

3)搾取型は高度経済成長期に多くみられた昭和型のいじめであって、1)・2)とは様相が異なります。
1)・2)は集団を媒介しますが、3)は必ずしも集団を必要としないのです。(ただし、集団で行われることもあります)
主従関係に基づいて発生するいじめであって、いわゆるパシリやカツアゲを強要する最も原始的かつ帝国主義的ないじめのことをさします。
身分制が解体した近代において身分制を復活することをめざした復古的ないじめともいえますが、奴隷制はダメという倫理的な優位性が機能する分、個別の主従関係さえ発見できれば比較的解決が容易なのが特徴でもあります。
やっかいなのは、3)と1)や2)の複合型いじめで、マスコミで報道されるいじめのほとんどはそれであって、その多くは文字通り致命的ないじめです。

前述したとおり、1)・2)のいじめは集団を媒介とするネットワーク型の近代的ないじめです。
そのため、日本特有の空気が大きな役割を果たしています。(他国のいじめは圧倒的に3)タイプが多い)
今の教室は、強い同調圧力に支配されています。
良くも悪くも、そうした生徒の空気が授業の質を大きく左右するほどです。
それは、学校が常民(よい生徒)という凡庸さをある種強迫的に再生産しつづける近代的な器であることと無関係ではありません。
生徒は均質性を志向するよう構造づけられています。
そこで、集団の求心性を高めるためのスケープゴートとして、いじめが執行されるのが1)のいじめです。
(*スケープゴートというのは、旧約聖書の中にでてくる、贖罪用の山羊のことです。旧約聖書の時代には、人間の罪を山羊を背負わせて荒地に放す、という宗教的な儀式がありました。つまり、生贄です。そこから転じて、人々の憎悪や不安、猜疑心などを、1つの対象(個人や集団)に転嫁して、矛先をそちらにそらせてしまうことを意味します)
一昔前はスケープゴートの対象は、容姿や運動能力や学力や経済力などに起因する異質な者であって、いじめられっ子は特定しやすかった。
しかし、そうしたいじめられっ子は、しだいに姿を消しています。
現代のいじめは、誰もがいじめのターゲットになることはご存じでしょう。
じゃあ、無作為にランダムにターゲットを選定しているかといったらそうではありません。
現代のいじめのもう一つの特徴が周期が短いことです。
嵐も一ヶ月もすればおさまることがほとんどです。
なぜなら、空気が媒介しているからです。
空気は空気であるが故に、形はなく、風向きが変わればターゲットも変わり、移ろいやすい。
だが一方で、教室の空気をつくり出している者は絶対にターゲットにならない。
断言してもいい。
スクールカーストの頂点に位置する特権階級はスケープゴートにならない。
当たり前です。
この儀式を執行するのが彼らだからです。
だから一見すると、何の問題もないようにみえる子がスケープゴートとなるのですが、よくよく観察すると、それは空気の読めないわずかに偏奇した子なのです。
平均値から、とにかくプラスの方向にもマイナスの方向にもしずぎないこと、それがいじめから身を守る、子どもたちのギリギリの処世術なのです。
もう一つ身を守る方法が、オタク集団を形成することです。
オタクは、教室を支配する一般的な均質性を断固として放棄する能力を有しているので、結果的に自らの身を守ることになるのです。
(近年の異様なまでのオタクの増殖に驚きを隠すことが出来ませんでしたが、こう考えると納得ができました。オタクはオタクで超均質的な集団ですが、評価軸が異なるためいじめの対象とならない)
となると、オタクという外れ値を除外した平均値からの隔たり・偏奇を唯一の基準として、子どもたちは教室のなかの自分の位置をはかりつつ、いじめられっ子を抽出するのです。
だからといって全ての教室でいじめが起きるかというと、そうではありません。
いじめは、集団のアイデンティティが不安定であり、危機にさらされているクラスで猛威をふるうのです。
具体的にいうと、成績が中位で、リーダーのいない(もしくは担任のリーダーシップがない)あいまいなアイデンティティのクラスで培養されやすい。
なぜなら、今村仁司が「差異は秩序の安定条件である。ところが、秩序の危機においては差異化のメカニズムは崩壊して、対他的同一化または模倣が一挙に噴出する。パニックなどはその典型である」といっているように、差異の消滅という秩序の危機に際して、全員一致の暴力としての供犠が成立するからです。
つまり、均質化が過度に進み過ぎたためアイデンティティが不安定になり、全員一致の意思にささえられた供犠としていじめを執行することで、自分よりクズなやつを作り、自分は違うと証明することで意図的に差異を生み出し、アイデンティティクラッシュの危機を回避しているのです。
(その裏返しとして、このタイプのいじめは、担任やクラスリーダーにちからがあって権威性が確立しているクラス、もしくは担任そのものがスケープゴート化しているクラス、では起こりにくくなっている)

一方の2)の排除型とは、1)とは対称的に、すでに集団としてのアイデンティティが確立した集団に発生しやすく、集団の理念を共有できない者や組織の利益を損なう者を排除するいじめです。
つまり、集団の価値を損なう者を排除することで、集団としての価値を高めようとする営みなのです。
クラスに馴染まない者、一緒に真面目に作業をやらない者、ひときわ目立つ者などの「生徒らしい」という基準が間主観的に成り立っていたから、はみ出す者を規制しようとする集団的力学が働いた結果、排除されるのです。
ただし、こうした経験を通じて、子どもたちが集団生活のルールを覚えていくという一面があり、一概に悪とは言い切れなません。
問題なのは、その排除の論理なのです。
最近話題となっている、企業の追い出し部屋もこの一種であり、生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して、排除するなどして冷遇されることは「自己責任だ」というのは、現在の日本の組織の雇用においてはすでに常態です。
この場合、積極的にいじめがおこなわれる訳ではなく、いじめられたというより排除される者が理念や利益に適う人間に転換すれば、いじめはおさまります。(きわめて稀な事例ですが)
つまり、2)の排除型とは弱肉強食の新自由主義的ないじめといえます。
いじめは個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。
自分のためにいじめが起きるのではなく、自分というものを超えたもののために、行われるいじめであって、このいじめは正義感の欠如によって起こるのではありません。
その反対です。
正義が多数と結びついたところに、いじめが起こるのです。
いじめが発生するのは、相手に勝る正しさ(正義)を保有していると確信している時や、相手が共通の基準から外れていると思うときに、その「事実」を相手に分からせてやろうとする意志とともにあります。
排除した者達に罪の意識はほとんどありません。
排除された者達を追放したことは、組織にとって善だとさえ信じている。
このように「生産性の低いもの、採算のとれない部門のものはそれにふさわしい処罰を受けるべきだ」ということを政治家もビジネスマンも主婦も学生も、子どもまでもが公言しています。
そういう社会環境の中で、いじめは発生し、増殖し、学校に入り込み、特に進学校ではそのイデオロギーとの親和性が高くなっています。
有能な人材が集まるなかで、グローバル競争での勝者を目指すことを宿命づけられた彼らは、同学齢集団の中での相対的な優劣というミクロな視点から級友たちの成熟や能力の開花を阻害するのではなく、マクロの視点から集団をグローバルレベルに引き上げようとすることで自己利益を確保するために、排除を行うのです。
そうした「できのわるいもの」に対する節度を欠いた他罰的なふるまいそのものが子供たちの「いじめマインド」を強化し、その責任追及が峻厳であればあるほど、仕事ができない人間は罰を受けて当然だという気分が横溢するほど、学校はますます暴力的で攻撃的な場になることは自明すぎるほど自明です。


このように、一言で“いじめ”といっても、さまざまなレベルがあり、それによって予防の手だては異なります。
それを十把一絡げに盲目的に、徒手空拳で対応するのは、無謀以外の何物でもない。
サルトルがいうように、人間は被投性に直面することによってはじめて、存在と自由の真の意味が得られるのである。
たまには立ち止まって、被投性を自覚することからはじめたい。
さもなくば、未来に投企することなど夢物語だし、それは教育の敗北に等しい。