中国語を学ぶ理由

先日1年ぶりにブログを復活させたわけですが、長い沈黙に何か意味があるのかと問われると、返事に窮してしまいます。
特にこれといった意味はないのですが、あえて理由を挙げれば、たぶん引っ越したせいで「オレカフェ」(長居できて、ほどよく混雑しているが耳障りでなく、コーヒーがおいしい店)を見つけることができなかったからです。
少し補足すると、職場と住み家が変わるという人生のビッグイベントが同時並行的に進行していて、ちょっと生活に慣れる必要があって、慣れてくる(なんと5時に帰宅する生活)と退屈になって、久しぶりに文章を書くことで限界に挑戦したくなり、ブログを再開したのです。

この1年間はそのように、大きな環境の変化があったわけですが、それに加えて1つだけ今年から始めたことがあります。
中国語の勉強です。
反中感情がかつてないほど燃えたぎる最中に、なぜ?と思うでしょう。
私自身、中国が好きか?と問われても、自信をもって好きと答える自信がありません。
中国人が好きか?と問いをずらしても同じことです。
中国人の先生と一緒に1年間勉強してきた今でも、好きと言い切ることができません。
好きで勉強するのでないとしたら、ビジネスのためかというと、それも違います。
私の仕事は、とてもローカルな仕事で、高度な日本語の話者であることは要求されますが、出張といっても年に数えるほどしかなく、それも国内に限定されています。
毎日決まった人間と仕事をしていればよく、その対象として中国人は想定されていません。
ユニクロ楽天とは違って、嬉しいことに、日本語以外の言語をほとんど必要としない仕事なのです。
つまり、中国語を習得する必然性は皆無なのです。
それに、金勘定のことを考えるなら、英語を磨いた方がよっぽど合理的です。

では、なぜ好きでもなく金にもならず時間までも浪費する中国語を勉強するのでしょうか?

その答えは、おそらく、その言葉が意図しようとする内容と私が意図する真意とは全く異なるとおもいますが、字面をおえば名古屋外国語大学学長の言葉が端的に示しています。
「言葉を学ぶことで、その背後に広がるこれまで知らなかった視野を手に入れることができ、今までは見えなかった面が見えてくるようになります。同時に新たな情報も得ることができます。言葉を学ぶことによって、人間的により大きくなることが期待できます。さらに、言葉を学ぶことは人間性を磨くことにもつながっていきます。」

この言葉の中にある私が中国語を学ぶ理由を導き出すのは容易でしょう。
しかし、真意はというと、私自身も私が通っている語学教室で半期に一度実施されるアンケートに回答する段になって初めて気づきました。
そこで中国語を勉強する動機を問われたのですが、「中国語を仕事で使うから」だとか、「留学を考えている」だとか、「趣味で」とか、その回答欄の選択肢に私の動機にフィットする答えがありません。
そこで仕方なく、「その他」を選び、空欄に反射的にこう記しました。

「中国語を学ぶことで、新しい世界を獲得する為。」

別に歴史を生業としていなくとも、中国語が日本語の誕生に果たした役割は自明でしょう。
中国語なしに日本語は生まれませんでした。
また、古代や中世の文化は中国との関係を抜きに考えることはできません。
しかし、それでは中国語を勉強する理由が新しい世界を獲得することにはなりません。
幸いにも私は仮にも歴史を生業としている者として、次のような事実を知っています。
日本は明治期におびただしい数の翻訳語を導入しました。
例えば「社会」、「民主主義」、「哲学」、「個人」、「存在」、「科学」のような今わたしたちが使っている社会科学や自然科学の用語がそうです。
かつての日本人はこの「社会」という1つの訳語を例にとっても、翻訳するのに、並々ならぬ努力を要しました。
それは、societyに相当することばが日本語になかったからです。
相当する言葉がなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本になかったということです。
やがて西周福沢諭吉中江兆民のような啓蒙思想家とよばれる先人達の努力により「社会」という訳語が造られ、定着します。
すると、「社会」−societyに対応するような現実が日本にも存在するようになったのです。
つまり、「言葉(=名前)」ありきで、現実はその後追いという事態が生じたのです。
その概念や意味合いを知らなければ、脳内で情報として処理されません。
言葉を獲得することで、モノに意味を与えられ、モノは形象を身に纏うことができる。
言語とは、現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化する、秩序そのものなのです。
言語は単なるコロキアルな技術ではなく、思想・歴史・気候などが凝縮した土着の記号の体系であり、それを操作するということは否応なしにその世界観に支配されるのです。
だから、子どもにとって、母語を獲得することは、まさに世界を獲得することと同義です。
母語を習得するとき、子どもはその言語について何も知らず、空気の波動を記号的に分節し、光の波動を文字として把握し、ゼロから世界像を形成しています。
翻って外国語の学習というのは、本来、自分の種族には理解できない概念や、存在しない感情、知らない世界の見方、つまり異なる世界観を、他の言語集団から学ぶことです。
本来、外国語というのは、自己表現のために学ぶものではなく、自己を豊かにするために学ぶものなのです。
自分を外部に押しつけるためではなく、外部をうちに取り込むために学ぶものです。
理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと思います。
浴びるように「異語」にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語にしか存在しない語に自分の身体が同期する瞬間が訪れる。
それは、ある意味で、足元が崩れるような体験です。
自分が生まれてからずっとそこに閉じこめられていた「種族の思想」の檻の壁に亀裂が入って、そこから味わったことのない感触の風が吹き込んでくる。
そういう生成的な経験なんです。
その経験として、これは私の仮説ですが、中国語を理解することでなぜ中国があれほど広大な領域と、膨大な人口を獲得することができたのかが分かった時、心地よい風が吹きました。
もちろん、共産党体制や中華思想や“ほう”という扶助関係に理由を求めることもできますが、言語がその下地となって彼らを連帯させているのです。
どういうことかと申しますと、中国語にイエスやノーのシノニムがないという言語上の特性が否応なく人を連帯させるのです。
具体的には中国語で相手の質問に返答するには、相手の言葉をオウム返ししなければならないのです。
たとえばこのような感じです。
「あなたは中国に行ったことはありますか?」
「私は中国に行ったことがありません」
英語や日本語ならば「うん」や「イエス」だけで終わらすことも可能ですが、中国語では復唱しなければ意志を伝えられないのです。
これは、「予祝に対しては予祝を以て応じなければならない」という人類学的叡智が組み込まれたコミュニケーション作法です。
私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができません。
それが人間が人間的であるためのルールです。
今に始まったことではありません。
人類の黎明期に、人類の始祖が「人間性」を基礎づけたそのときに決められたルールです。
予祝の言葉が贈与されれば、それに対しては必ず同じく祝福の言葉が贈与されます。
親族の形成は、このルールに準拠して制度化されたのです。
だから、「ただいま」、「いってらっしゃい」、「おかえり」が家族のマジックワードなのです。
つまり、中国語とはグローバル言語ではなく、土着の連帯の言語なのであって、そこから中国人がなぜあれほどファミリーを重んじるのかが紐解かれ、結果的にその価値観、ひいては世界観を獲得することになるのです。
おそらく私はこれから家族と会話するときは、小津安二郎監督の『東京物語』以上に、オウム返しを繰り返すでしょう。
「英語ができると就職に有利」といった手持ちの理由で外国語を学ぶ人たちは、どれほど語彙が増えても、発音がよくなっても自分の檻からでることができません。
言語とは、「ちゃっちゃっと」手際よく習得すれば、労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種のような下衆ものではなく、人類の叡智の結晶であり、世界そのものなのです。
そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれているのです。
だから、外国語を習得することではじめて「母語の檻」から抜け出し、新しい世界への扉を開き、新しい世界を獲得することができるのです。


これが私が中国語を勉強する1つめの真意です。
そうです。1つめということは、じつはその空欄には書けない隠れた理由がもう1つあります。(1つ目の理由よりさらにシュールすぎるため書けない)
それは先ほど同様、学長のメッセージに明示されているのですが、人間としての成長があるからです。

中国語を学べば、13億人とつながることができる。
というような、ずいぶん前に倒産した英会話教室のCMのようなことを言うつもりはありません。
もちろん、言語を通じて他者と出会うことは人間的成長につながりますが、先ほども言ったように、私にはつながるべき他者が近くにいません。
では、他にどのような人間的成長があるのかといったら、「失敗できる」ということが大きく関係しています。
当然ながら、全く知らない言語を学ぶわけですから、失敗の連続です。
発音できない。
書くこともできないし、文法も間違いだらけです。
しかし、アインシュタインの「一度も失敗をしたことがない人は、何も新しいことに挑戦したことがない人である」という名言を引き出すまでもなく、失敗こそ成功の母です。
何を好きこのんで失敗したがるのかと訝しむ人もいるでしょう。
しかし、齢33歳にもなると、職場での失敗は致命傷につながることがあります。
当然、年収にも影響し、それは生活に直結します。
ならば、失敗しないように、自分にできることだけやっていればよいかというと、それはそれで評価されません。(公務員には評価されなくても給料が変わらないのでそういう人種が多いことは有名です)
つまり、失敗しても何の実害もない環境で失敗することで、能力を開発する必要が生まれたのです。
実は、昔の男は「お稽古ごと」をよくしています。
夏目漱石高浜虚子宝生流の謡を稽古していましたし、山縣有朋井上通泰に短歌の指導を受けていました。
植木等の歌に「小唄、ゴルフに碁の相手」で上役に取り入って出世するC調サラリーマンの姿が活写されていますが、1960年代の初めまで、日本の会社の重役たちは三種類くらいの「お稽古ごと」は嗜むのがデフォルトでした。
つまりそれは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからです。
ストレスフルな経験でありながら、中国語教室でどのような失敗をしようと恥をかこうと、それは私の実生活には何の関係もありません。
本業以外のところでは、どれほどカラフルな失敗をしても、誰も何も咎めません。
それで命を取られることもないし、失職することもないし、減俸されることもないし、家族や友人の信頼や愛を失うこともありません。
本当に何の実害もないのです。
真の国力というのは「勝ち続けることを可能にする資源」の多寡で考量するものではなく、「負けしろ」を以て考量するように、人間力も同様です。
一手も打ち間違いができないというタイトな条件を課せられた中では、クリエイティビティを発揮できません。
あのイチローであっても、7割近くは失敗するわけですし、なんとユニクロの柳井社長にいたっては『1勝9敗』という本を出しているくらいです。
負けしろのない状況でブレイクスルーを果たしたのは、歴史上宮本武蔵ぐらいしか見当たりません。

まことに玄妙なことですが、私たちが「失敗する」という場合、それは事業に失敗する場合も、研究に失敗する場合も、結婚生活に失敗する場合も、「失敗するパターン」には同一性があります。
私はこれまでさまざまな失敗を冒してきましたが、そのすべてはいかにも自分がしでかしそうな失敗でした。
それは例えば、要領が良いので何でもすぐに上達するが、基本を無視したせいで途中から成長しなくなったりすることだったり、軽率な言動だったり、その場を取り繕うことを何より優先させる性質であったりするのですが、カトウがこんな失敗をするとは信じられないというような印象を人々に残すような失敗というものを私はこれまで一度もしたことがありません。
すべての失敗にはくろぐろと私固有の「未熟さ」の刻印が捺されています。
だからこそ、私たちは「自分の失敗のパターン」について、できるかぎり情報を持っておくべきなのです。
そして、そのパターンを学ぶためには、「きわめて失敗する確率の高い企て」を実行するのだが、どれほど派手な失敗をしても「実質的なペナルティがない」という条件が必要なのです。
私がお稽古ごとにおいて目指しているのは、まさに「できるだけ多彩で多様な失敗を経験することを通じて、おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」ことなのです。



相変わらずややこしい話で申し訳ありません。
そういうわけで、もう驚くことはないでしょう。
私が中国語を勉強する目的は、その技芸そのものを上達させることではありません。
外国語を学ぶことは、母語を習得するときのブレークスルーをもう少し小さな規模で追体験することであって、ランガージュの檻から抜け出し、さらには自己の檻を飛び越える行為なのです。
それまでの自我をいったん解体して、より複雑でより精度の高い自我として再組織化することで、知的パフォーマンスを向上させることが目的なのです。
その言語がたまたま中国語であっただけで、好きでもなく金にもならならない中国語を勉強する理由なのです。
というわけで、今年はアラビア語に挑戦してみたい。