ニューヨーク滞在記

走るためにニューヨークに行くのか、ニューヨークに行きたいから走るのか、説明が難しいが、僕は3月15日から20日にかけて一人でニューヨークに行ってきた。
妻には散々悪態をつかれ、おそらくこれからも一生言われ続けるのだろうけれど、このタイミングを逃せばきっと生涯ニューヨークに足を踏み入れることができず、臨終の際に「あの時ニューヨークに行けば良かった」と後悔する光景がありありと想像できたから、腹は括れた。
そして、航空券のチケットをクリックをして購入したとき、たとえ誰になんと言われようと断固としていく決意は固まった。
実際にえらい目にあったのだが、僕にとってそれ以上に恐ろしいことは、自分の人生に懐疑心を抱くことだった。
それに比べれば、管理職から説教を食らうことなど屁みたいなものだった。
それに彼らは知らない。
いや知っているのだろうが、立場上、意図的に忘却している。(もしかたら本当に知らない可能性もある)
日本に何十年いても、仕事をどれだけやっても、見えない世界があるということを。
たしかに仕事ではない。
遊びなんだけれども、遊びだけでリスク背負ってニューヨークにいく年齢でもない。
仕事だけ一生懸命していれば、成果(業績)があがるような努力相関型の世界構造は破綻しつつある。(完全に破綻することはないけれども)
仕事に占める遊び的要素がもっと大きくなる。
ニューヨークで走るという行為が将来どのような意味や価値をもたらすのかわからない。
けれど、いずれ何かの役に立つ、というか、後からきっと”つながる”。
その時に、イノベーションが起きる。
そうした投資を怠ったり、知性を無視し続けると、才能は枯渇してしまう。
僕にとってニューヨークで走るというのは、花に水をやるようなものなのだ。

ただし、僕にとってニューヨークという場所がとりわけ大きな意味を持っていた。
ニューヨークシティハーフマラソンのエントリー抽選に当選しなれば(10倍を超える倍率)ニューヨークに行かなかっただろうし、逆に、インドのデリーとかロンドンとかソウルとかだったらわざわざ走りにいこうとは思わなかった。
僕がニューヨークに強い関心があるのは、3.11以後の世界を知りたいと強く思っているからだ。
世界は近いうちにドラスティックに変わると思う。(転任の挨拶でほのめかしたけれども、一笑に付された)
その最も先駆的な都市がニューヨークであって、そこで何が起きているのか見たいという本能を無視できなかった。
世界を知るためにはニューヨークに行くしかない。
自分の足で確かめるしかない。
前にもブログで書いたけれど、走ることは街を知ることに直結する。
僕は、走ることでより深く世界を知った。


たしか中学1年の時の英語の授業で、アメリカは人種のサラダボウルだと教わった。
人種といっても、白・黒・黄色ぐらいしか知らず、サラダなんてほとんど食べたことのない中学生にはピンとこなかったが、今目の前にある光景をみたらわからないとは言えない。
白人、黒人、ヒスパニック、日本人、コリアン、中国人、東欧系、南米、インド人、世界中のありとあらゆる人種がニューヨークでは行き交う。
これぞ、ダイバーシティ
見事なまでにダイバーシティ
フランスやイギリスに行ったときも驚いたが、その多様性はニューヨークの比ではない。
この街で発見できない人種などないかのようで、まるで人種の博覧会だ。
1ブロック歩けば、何種類もの人種に出会う。
だから日本人の僕でも、空港出てすぐに違和感なく街の風景の一部になることができた。
グローバル化が進む過程で、こうした光景は世界中で、もちろん日本でも見慣れた光景になるだろう。(なぜなら、より安い労働力の確保が国際競争力の強化につながるから。)
ニューヨークははるか先駆的に未来を先取りしていた。(というか、ニューヨーク型都市が世界に拡散している)

なぜニューヨークがこれほど多種多様な人種を許容できるのか。
それは、東京にも共通するのだが、中心が空虚だからだ。

河合隼雄の『中空構造日本の深層』によると、
「中空が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行うためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデル」なのである。
また中沢新一の『アースダイバー』でも以下のような表記がみられる。
「トウキョウは巨大なドーナツのようなつくりをしている。中心に穴が開いていて、都市の中心が空なのである。ドーナツの縁を巡る大小さまざまな環の上では、経済や流通のせわしない流れが、流れ続けている。そこではさまざまな記号や数字や映像が飛び交いながら、なにか有用な価値を持った「有」が流れているのだ。ところが中心部に開いた穴には、それとはまったく異質な時間がゆっくりゆっくり流れている。そこでは現実原則にしたがっている時間ではなく、遠い過去と現在とを1つに結ぶ「神話」の時間が流れている。」

その東京の空虚さを超える大いなる空虚が、ニューヨークの吸引力となっている。
セントラルパークと呼ばれるその名のとおり、中心であることを宿命づけれた空虚な公園。(公園というものがそもそも空虚)
大いなる空虚が価値観を相対化し、異文化を吸収し続けることを可能としている。
こうしたレセプターがない街にグローバリズムの猛威が吹き荒れたら見るも無惨になることは自明だ。
皇居のある東京、大阪城をもつ大阪、御所の京都、大濠公園の福岡といった中空構造をもつ都市の発達と、それ以外の都市の衰退は、より顕著になるだろう。
こうしたグローバリズムに対するハレーションが世界中で起きている(ウォール街もその1つ)が、ニューヨークに来て実感したのは、グローバリズムは止まらないということ。
確かに、グローバリズムの弊害はあげればキリがないが、少なくとも、僕はニューヨークで差別されずに旅行することができたし、グローバリズム以前ならば、僕はニューヨークに来ることすらできなかっただろう。
我々は、絶望の国の幸福な若者達ならぬ、絶望の世界幸福な市民達なのだ。
ならば、グローバリズムとどう付き合っていくかが重要だ。
世界の中心は空虚であるが故に、中心となる焦点はない。
つまり、無数の小さい物語が世界を構成する。
大きな物語が消失してしまった世界でどう生きていくべきか。

そんな世界について正しい認識なしに、教育は機能するのか。
あいからず大きな物語の前提の上に成り立っている教育で、果たして未来を生きる力を育てることなど可能なのか。
僕にはよくわからない。
でも、未来はニューヨークにあった。
その街を走ることで、僕はニューヨークとつながった。
これまでで最高の走りをすることができた。(1時間44分51秒、3367位/18698人)
ラスト500mの走りなど鳥肌ものだった。
タイムズスクウェアでは、まるで飛んでいるようだった。
人種なんて関係なかった。
皆同じランナーで、同じ苦しみと興奮と感動を共有している。
確かなのは、走ってみなければ分からないことがあったことだ。
それが分かったから、明日からも教壇に立つことができる。
世の中が変わってしまったことを嘆くのではなく、変わってしまったことを楽しみながら生きていけそうな気がした。
言いたかったことは全く違うけれど、それが僕がニューヨークで学んだことだ。