わかりあえないことから

「生徒は別の惑星の生き物だと思え」

 最近では呪文のように心の中でこう唱えている。
“惑星”は言い過ぎかもしれないが、少なくとも彼らは、我々が育ってきた世界とは全く違う世界の中で生きている。
はた目には同じ世界で生活しているように見えるが、いまや誰もがスマホを通じてオンラインのなかに、自分だけの世界をもっている。
そこはサブカルチャーで論じられるところのセカイ系※1のようなイメージだが、彼らにとってときに現実以上の価値を持つ。
彼らは現実と仮想空間という二つの空間を自由に行き来し、ときにはミックスさせ、変幻自在に、縦横無尽に駆け回る。※2
デジタルネイティブである彼らが生きている世界は、アナログで育った我々と全く違って見えているはずだ。 

その証拠に、最近にわかに定着しつつあるラベリングが”昭和”である。
”昭和”というラベリングは主に若者が年長者に使うレッテルであり、簡単に言うと時代遅れを揶揄する言葉です。
彼らはひそかに一方的で古臭い価値観を押し付けてくる大人をそう呼んでいる。
もしかしたら、彼らの方が切実にそう感じているのかもしれない。
「大人とは同じ惑星の住人ではない」と。
問題なのは、大人の方がそのことに気づいていないということです。
年齢を重ねるとともに未来が減って過去が多くなるという引き算をすればわかることです。
「未来」という言葉を使うとき、四十代は教育を論じるなら今後二十年を、人生を論じるなら今後四十年をしか考えない。
しかし、二十代なら教育を論じるなら今後四十年を、人生を論じるなら今後六十年を想定する。
この違いには計り知れないものがある。
過去と未来どちらの方が厚みがあるかによって参照するデータが変わり、過去の方が厚みがある場合、経験値、つまりは成功体験が幅を利かすことになる。※3
つまりは昭和な人たちである。
成功体験というのは、魔物である。
特に出世した人間は魔物と共存し、それを正解だと考える傾向が強い。
だから自身の成功体験にあてはめ、生徒とはこういうものだという先入観で理解したつもりになるため、目の前の生徒が見えないし、見ようともしない。
さらに学校という舞台は、毎年同じ学齢期集団で構成され、入学式・定期考査・体育祭・文化祭・卒業式と同じルーティーンで1年が回っているため、毎年生徒は変わっているという当然の原理を忘れてしまう。
自分自身が年を取っていることにさえ無自覚になり、埋まりようがないほどに溝は広がる。

 さらに当たり前なことに、人は年齢を重ねるとともに、年上の人が減り年下の人が増えていく。
ということは、世界そのものもその構成年齢によってアップデートされている。
だから、次々に現れる後続世代から学び続けなければ、実は子ども理解などできないのだ。
しかし、そこに自覚的な大人が圧倒的に少ない。※4
大人も子どももそれぞれの惑星という居心地のよいぬるま湯につかっている間に、世代という断絶が生まれる。

 生徒と教員は同じという考えは、教師が陥る最も危険なピットフォールだ。
心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションを考えるハイコンテクストな学校は、分かり合えない場合、排除の論理に行き着くからだ。
しかし、人間はわかりあえない、わかりえない人間同士がどうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれないと考えるコーコンテンクストな学校ならば、同じ物語を紡ぐことができる。
つまり、彼らは全く別の惑星の生物だと思えば、わかりあえないことから始めることができる。
他者を理解するためには、観察と対話が必要不可欠になる。
観察と対話の絶対的な量や技術や習慣が欠けているから、学校は旧態依然でいつまでたっても変われないのだ。

 教員も生徒もハッピーな学校、それは夢物語だろうか?
学校現場に観察と対話の原理を根付かせ、多様性のある学校づくりこそ私が今取り掛かっている未来だ。
まずは、わかりあえないことから始めよう。

 


※1東浩紀セカイ系を「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義している。
※2生徒が大人しくなり、いわゆる“いい子ちゃん”が増えたのもこのせいだと私は考えている。彼らには承認欲求を満たしてくれ、価値の拠り所となる仮想空間があるのだから、たとえ現実でそれらがなくとも困らなくなってしまったのだ。
※3さらに未来が5年、10年と短期スパンに入ると、過去を死守することを使命とし、未来が過去によって塗りつぶされてる人も多い。
※4ごく個人的な意見で一概に年代だけの問題でもないが、今や年上から学ぶものはほとんどない。どこかで聞いたことのある講釈をたれることがほとんどだからだ。一方若手の考え方は自分にないものも多く、そんな考え方や対処法もあったのかと驚かされることが多くなってきた。