つぶやくには長すぎるつぶやきに関することについて

twitterを始めた。
そのためにiPhoneを買った。
いや、逆かもしれない。
ともかく、年越し気分が一段落する頃には電話につぶやくという新しい習性を身につけた。


だいぶ以前から、ブログでは掬いきれない思考の断片を残しておく方法はないかと思案していて、twitterに目をつけアカウントを開設したのだが、PC端末上でしか操作できなかったため、長い間事実上凍結していた。
スマートフォン(以下スマホ)という身体的なツールでなければ、直感的なtwitterの機能を最大限引き出すことはできないということに、のちに気づくことになるのだが、この時は無知ゆえに、iPhoneならば事態を打開できるのではないかという期待を抱くにとどまり、相変わらず手帳を重宝していた。(DISCOVER DIARYはオススメの手帳)

実際にiPhoneを手にするとたじろいだ。
説明書を必要としない直感的な操作やボタンのない斬新なデザイン、多種多様なアプリなどもそうだが、iPhoneが秘めた野心に比べればかわいいものである。
twitteriPhoneの壮大な野望の歯車に過ぎない。
twitterがなければ実現しないのだが、twitterだけでも実現しない野望。
それは、人間の情報化である。

iPhoneでは、アプリというプログラムを活用することで、身体の情報化(体重・ランニング記録)も、視覚/聴覚の情報化(写真・録音・録画機能)、行動の情報化(スケジュール・GPS)、味覚の情報化(食べログ)というように、五感を中心とした人間の運動を情報化することをほぼ可能にした。
しかし、これだけならば従来のケータイ(スマホ以前の携帯電話機を便宜上ケータイと表記)でも可能だった。
iPhoneを革新的たらしめたのは、やはりtwitterの存在が大きい。
なぜならば、twitterは思考の情報化を可能にしたからだ。
twitterは、個々人が今直面している現実をトリガーに、様々な情報発信を行うことで容赦なくその人の思考や価値観が明らかにし、価値観の近い他人のつぶやきを通じて思考を「共有」することであいまいだった自分の思考にフレームを形作る。
まさしくそこに個人の思考を見て取ることができる。
嗜好から思考が読み取れるのだ。

ライフログという言葉に象徴されるように、まさにiPhoneによって人間そのものの情報化包囲網が完成した。
そして肝心の人間の方はというと、制御不能のよくわからない身体そのものより、数値化され理解可能なログの方にリアリティの比重を高めていくようになった。
それが時に生徒が発する「イライラする」という叫びに表象されている。
彼らは、内なる他者である身体を自分ではコントロールできず、恐れている。
それは怒りによって装飾されているが、自分の内部に自分で制御できない異物が存在することに対する不安に他ならない。
というのも、携帯電話(スマホを含む)を操作している時、その言葉を聞いたことはこれまで一度もないからだ。
携帯電話を操作しているとき、他者に対して不安や怒りを覚えることがあっても、それが自分に向かうことはない。
なぜなら、携帯電話の画面に映し出された記号を通じて、自分自身を再確認できるからだ。
それによってかろうじて不安定なアイデンティティをつなぎとめている。(twitterもその承認機能によって補助的な役割を果たしている)
だから、言葉という武器をもたないかれらは携帯電話なしでは生きれないと断言するのだ。
彼らにとって、携帯電話はもはや仮想現実ではなく、拡張現実として機能している。
そして、それに拍車をかけたのがiPhoneを筆頭にしたスマホに他ならない。
だから、中東の民主化革命にしても、ロンドンの大規模暴動にしても、ウォール街占拠デモにしても、スマホと親和性の高いtwitterフェイスブックを通じて芋づる式に連鎖・拡大していった。

テクノロジーで世界は変わるかもしれない。
しかし、世界を獲得するには、言葉が必要だ。
にもかかわらず、twitterでは140字という字数制限により、ある程度まとまりのあるオピニオンを書くことができず、なおかつ自分の直前のツイートがすぐに視野から消えてしまうという特性ゆえに自分の思考を深めることは困難である。
機器が直感的になればなるほど、人間から身体性が乖離していくという矛盾。
スマホが拡張現実として機能していくなかで、身体という現実は後退戦を余儀なくされている。
身体に担保されない言葉など空虚であって、世界はますます自分たちのそばから離れていく。
ゆえに、そのことに自覚的であらねばならないと強く思う。

テクノロジーに良いも悪いもない。
生かすも殺すも使い方次第だ。