プロレス正義論

プロレス観戦歴はちょうど1年を超えましたが、ずっと分からないことが1つだけありました。
それは反則の定義です。
場外乱闘の場合、20カウントが適用されるらしい。※1
けれども、禁止されているはずのグーパンチや、道具を使うことや、助っ人行為は日常茶飯事だし、それをウリにさえしているレスラーだっています※2
サッカーなら、とっくにレッドカードで退場です。
なぜプロレスでは許されるのか?

いや、この発想自体がおかしいのかもしれません。
他のスポーツの方が異端であって、プロレスこそ正統なのかもしれません。
つまり正しい問いは、プロレスでは許されている行為が、なぜ他の競技では禁止されているのでしょうか、ということになります。
こう考えると、一気に視野が広がり、プロレスという競技の奥深さの一端を垣間見ることができます。

実生活において、18禁、未成年の飲酒や喫煙、運転中の携帯電話使用など枚挙に暇ないほど、ルール違反だらけです。
ルールを100%守っていたら生活できないといっても過言ではありません。
このように、法律では禁止されていても、黙認されていることなど実生活ではいくらでもあります。
プロレスは非日常の世界ですが、そういう意味では日常の延長戦上にあるといえます。
だから、プロレスは反則1つ1つに目くじらをたてるようなことはしません。
反則に寛容な、“現実的な”スポーツといえましょう。
ただし、当然ながら審判は存在します。
存在しますが、神のような絶対者ではありません。
審判はラインズマンに過ぎず、レスラーと観客と審判の共犯関係によって「ここまではやっても許されるが、これ以上は絶対に許されない」という境界が線引きされるからです。
一方で、他のスポーツは、神のような存在である審判のもとで、正しくプレーすることを義務付けられ、少しでもルールから逸脱すると、一刀両断されます。
それが本当に健全でしょうか。
僕には、暴力にしかみえません。
一見暴力的なプロレスの方がよっぽど健全です。

一般的に、正しさの根拠は、①神、②偉人、③倫理、④法律によって担保されています。
しかし、その根拠のどれも、時代や場所や立場などに制約され、絶対的なものではありません。
神だって、イスラム教とキリスト教は絶えず互いの正しさを主張し合って喧嘩ばかりしているし、ブッタや孔子などの偉人もアジア限定です。
倫理なんてものはもっとも怪しいもので、日本でいうところの空気みたいなもので、すでに島宇宙化し、公約数を失っています。
かろうじて正しさの普遍性を保っているのが法律ですが、法律も誰かの利益を守るために作られたものです。
だから、ヤクザやホームレスや難民のように法律で守られない人が現にいます。※3
正しさとは、何かに依拠して成り立つものですが、このように、その根拠はどれも絶対的なものではなく、利己的で、人の数だけ存在といっても決して大げさではありません。

にも関わらず、自らの正義を盲信し、他者に押し付けるような人が必ずいます。
炎上の例をだすまでもなく、ネットの発達によって、とどまる所を知らぬほどの勢いで増殖しています。
僕はそういう人がヘドがでるほど嫌いです。
なぜなら、彼らは自らの有責性を放棄した言葉を発するからです。
そうした言葉は、いともたやすくスタンピードします。
特に善意は陶酔しやすい。
一方的に加速するから周りが見えなくなる。
その帰結として多くの不合理や不正義を生む。
アメリカのイラク戦争などがよい例です。
一種の権威主義であって、本人の自覚なしに正義という名の権威を笠にした暴力をふるい、正義であるがゆえに相手は無抵抗のサンドバック状態で、なすすべがありません。
たとえ正義の根拠が揺らいでも、彼らはどこ吹く風です。
自分の信念に基づく言葉でもないので、大抵の場合、そのころには忘れていますが、やられた方は絶対に忘れません。
いじめと同じです。
しかし、忘れたならまだましで、やっかいなのはオウム真理教のように、自分の認識する「正しさ」をおびやかされると、正しいことを信じる人は拒否反応を起こすことがあります。
自分たちがストイックに信じるモノ・価値に対し「なぜ世間は分かってくれない」と苛々する気持ちは「自分以外はすべて馬鹿」という極論に豹変しやすい。
純粋で硬直化している頭にはタメがなく一気に過激に豹変します。
純粋と傲慢は紙一重です。
自分の価値観を理解できない野蛮人を教化してあげるという独善的ともいえる中華主義的な傲慢さが溢れています。
正しさゆえの自己正当化、排他性も正しさのピットフォールとして強く自覚すべきでしょう。
つまるところ、彼らの世界観は、「他者」を必要としません。
しかしながら、他者からの呼びかけに耳をふさいでいるということは、自分も他者から必要とされていないということの裏返しでもあり、正義には人間性がないといえるでしょう。※4

プロレスは、棚橋選手の「愛してま〜す」に象徴されるように、他者の存在が不可欠です。
サッカーではたまに無観客試合がありますが、プロレスでは絶対ありませんよね。
プロレスには絶対的な正義などないし、絶対的な悪も存在しないことと無関係ではありません。
ビーフェイスだって、一時の激情によって、パイプ椅子を振りかざすことがあります。
ヒールが、倒れた相手に手を差し伸べるような、紳士的な振る舞いをすることだってあります。
1人のレスラーの中に善も悪も共存していて、そのグラデーションの濃淡があるだけだからです。
同じように、100%の善人がいないように、100%の悪人もいません。
犯罪が起きると、ワイドショーで報道される「ふだんはいい人でしたよ」というインタビューがその証左でしょう。
犯罪者は、一時的に悪の境界線を振り切ってしまっただけで、ごく一部のサイコパスを除けば、生まれながらの悪人など存在しません。
境界線を越えるか超えないかの問題があって、その境界線は誰の前にも引かれているのです。
自分は絶対に犯罪など犯さないと、多くの人は思っているでしょう。
ですが、多くの事件の犯罪者もそう思っていたのです。
「なんで私が」
「なんであの人が」
という言葉が核心をついています。
誰もが犯罪に手を染める可能性はあるという単純な真実に、人は驚くほど盲目です。
だから、まるで自分が神であるかのようにふるまって、犯人を糾弾できるのでしょう。
非難されるべきはその行為であって、人間性全てを否定するのは、浅はかです。

それは、正しさの自明性を疑うという知性を喪失しつつあることを意味しています。
プロレスファンに知性があると言っても誰も同意してくれないでしょうが、レスラーという生身の人間の身体を通して、観客は知らず知らずのうちに善悪のバロメーターを身につけています。

「攻撃する前に、もう少しだけ直視したほうがいい。あるいは違う視点からみたほうがいい。ほんの少し視点を変えるだけで、この世界は違ってみえる。それほど世界は多重で多面で多層的だ。」※5

リングの上には、多重で多面で多層的で、愛が溢れている。
それが唯一正義に対抗する価値観である。
それは、僕がプロレスを通じて学んだことです。



※1ルールブックは一度も読んだことはない。なぜなら、それは野暮な行為であり、ルールは身体で覚えていくものだから。
※2ルール上は、各レフェリーのカウント5秒以内であれば許されるらしい。
※3『ヤクザと憲法』という映画をぜひご覧ください。
※4人間の人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」であるとレヴィナスは言っている。
※5これは作家の森達也の言葉ですが、森達也もプロレス好きです。