未来をつくる仕事

「オモシロキコトモナキ世ヲオモシロク」

この言葉を知った時から、そんな生き方に憧れてきた。
オモシロキコトを求め、冒険に挑み続けた大学時代。
オモシロキコトナキ仕事に忙殺されたサラリーマン時代。
絶望の淵から必死に這い上がろうともがき苦しんだ新米教師時代。
いつの時代も、道に迷いそうになる僕に、光を照らしてくれた言葉だった。
その言葉が教師を続ける原動力になったのはもちろん、今となっては、僕の存在意義そのものといっても過言ではない。
僕にとってのプロフェッショナリズムを問われれば、迷うことなく「オモシロキコトモナキ世ヲオモシロク」と答える。
しかし、勤勉さや前例が尊ばれる教育界においては異端と言える。

今の僕の仕事は、「学校改革推進部」と呼ばれている。
個人的には役所っぽさが抜けきれていないところに不満が残るが、従来の組織・仕事では当てはめることができない激レアな仕事だったため、このような耳慣れない名称で呼ばれることになった。
この名称1つとってみても、異端ぶりが際立っているのだが、別にカルロス・ゴーンみたいなことをやるわけではない。
その「学校改革推進部」とは、一言で言ってしまえば、学校をオモシロクする仕事です。
今の学校は、どんどんオモロなくなっていってます。
何十年も前から変わらない教務部・生徒指導部・進路指導部などといった主要部署による縦割り組織によるセクショナリズムが蔓延し、変化し続けている社会に対し、旧態依然たる学校はもはや機能不全に陥っています。
また、教師そのものにも大きな問題があります。
教師という生き物は、牢獄に閉じ込められている。
いまだに、閉鎖的な教室という空間で1対N型の講義が主流であるし、休日返上で部活動をするのが美徳である。
働き方改革なんてどこ吹く風、ガンバリズムがはびこったままだ。
だから、成果(質)ではなく、熱意(量)でしか仕事を評価できない、いびつな平等主義がはびこっている。
そのくせ教師という生き物は、縄張り意識が強く、特に、前例にない仕事には強い拒否反応を示します。
しかし一方で、生徒の成長を実感できれば率先して改革をやりたがるのも教師の特性です。
私の勤務校も、数年前は荒れていました。
身だしなみもあいさつもできないし、遅刻も当たり前、そんなルーズな学校だったが、教員は誰一人として指導しようとしなかった。
しかし、そんな状況を打破すべく、一部の教員たちで立ち上がりました。
最初は、傍観者だった他の教員も、きっちり身だしなみをした生徒から挨拶されるようになると、率先して指導するにようになったのです。
つまり、教師を牢獄から解放するには、生徒が変わればいいのです。


情報化の進展に伴い、つまりはスマホの普及により、リアリティの価値は低下、もしくは多様化した。
生徒たちは、何をするにしろ、とことん情報を集め、じっくり考えて、自分が納得してからでないと行動を起こさなくなった。
いくら説教しようとも、たとえ強制したとしても、生徒はその場しのぎでやり過ごす大人顔負けの処世術を身につけています。
なぜなら、学校がリアリティの一面にすぎないことに気づいているからです。
現実がどれだけ不快であっても、別のリアリティがあるから、そんなの関係ねぇのです。
だからといって現実に興味がないかというと、そうではありません。
就職人気企業ランキングでは、相変わらず大企業が人気ですし、公務員志向も強い。
若者は現実的というか、保守的な傾向を強めています。
多様な価値をもつ若者たちにとって、価値の土台となる社会は安定的でなければならない。
つまり、社会が変わることなど望んでいないのです。
現場感覚からすると、自分自身が変わることさえ望んでいません。
ずっと子どものままでいたいというのが、若者の偽らざる本音だと思います。

望むと望まざるに拘わらず、社会は変化し続ける。
グローバル化と情報化によって、変化は一層加速している。
変わりたくない自分と変わることを要求してくる社会というはざまで、若者は社会というものに対して、漠然とした不安を抱いています。
変わらなければ、社会に参画できない。
変わりたくないから、社会のことがよくわからない。
そうしたジレンマのなかで、不安に苛まれているのです。
就活に過剰に反応するのは、その反動でしょう。
マニュアル通りの、ハリボテ就活生はその典型です。
しかし、彼らは、”納得”すれば変わることを拒絶することを放棄します。
多様化した現代社会では、その納得するための唯一と言ってもいい共通のコードが、社会なのです。

じゃあ、教師は用なしかというと、そうではない。
すべての生徒が自分一人で、コードにアクセスできるかというと、そうではない。
むしろ、そんな行動力のある生徒はほとんどいないし、そもそも社会そのものをろくに知りもしません。
教師なしでは、ほとんどの生徒が路頭に迷うことは目に見えています。
教師は、盲目な生徒の目となり、光とならねばならない。
教師の役割は、変わったのです。
教師とは、授業して、知識を教える仕事ではなくなったのです。
日本史を教えることが教師の役割ではありません。
部活動で勝利することが教師の役割ではありません。
教師とは、この転換期を生き抜く力を育てる、つまり、「未来をつくる仕事」なのです。

そのことを、まずは教師自身が自覚しなければなりません。
現にある高校では、英語の教師が、特許に関する授業をしています。
これからは、高校生が取り組む地域再生や研究など、学校と社会を接続するのが教師の主たる仕事となります。
学校とは、社会とつながって、社会課題を自分ごととし、日本の未来と自分自身のスキマを埋める場所なのです。
10年後の未来を想像し、その未来との懸け橋となるのが教師なのです。
学校をオモロクするのは、簡単です。
学校が社会の窓口となればいいのです。
だから、僕たちは、内向きには「学校改革推進部」とは呼ばずに、「ソーシャルデザインラボ」と呼んでいます。※1
学校と社会をつなげることをもっと意識して欲しいからです。
まずは教師自身の意識を変えていくことから始めていかねばならない。
教師とは、「未来をつくる仕事」なのだと。


オモシロキ仕事がないのなら、自分でオモシロキ仕事を創ってしまえばいい。
芸歴10年を超えて、「オモシロキコトモナキ世ヲオモシロク」する生き方のスタートラインにやっと立てたのかもしれない。
未来はこの手のなかにある。



※1「学校改革推進部長(ソーシャルデザインラボ所長)講話2018 vol1」参照