国誉めランニング

人はなぜ走るのか?

ダイエットのため?健康のため?トレーニング?みんな走っているから?

道と靴さえあれば、今すぐに誰でも始められるランニングは万人に開かれたものです。
そして、走る理由はごまんとあります。
その手軽さや間口の広さも手伝って、今やランニング人口は800万人を越えました。

しかし、人はただそれだけの理由で、何ヶ月も、へたをすれば何十年も走り続けることができるでしょうか?
私の答えは、“否”です。
きっとランニングには、自然と人間の関係性のなかに存在する人類学的叡智がプログラムされているはずです。
つまり、走ることで人は本能を満たしている。
ゆえに人は走らずにはいられないのです。


当たり前ですが、人は走るとき、場所に制約されます。
走ってもせいぜい20〜30kmが一般ランナーの限度ですから、ランニングポイントは自然と生活圏に属することになります。
よって人は、その生活圏内をぐるぐると走ることになります。
ぐるぐると表現したのは、人によって違いはありますが、ランニングコースの多くは折り返し型ではなく、円環型が選択されるからです。
なぜなら理由は明白で、私の場合、同じ風景を見ながら走っても飽きるからです。(コースですら、3〜5パターンありますが、全て円環型です)
つまり、走りながら風景を愛でているのです。

アメリカでは、セントラルパークのようなランニングの聖地があります。
日本でも、皇居、大阪城名古屋城、福岡の大濠公園などがそうです。
なぜこれらがランニングの聖地となったかというと、いくつかの理由はありますが、大きな理由の1つが、愛でるべき風景があるからです。
数分ごとに街の別の顔が立ち現れるコースでは、飽きるどころか風景に目を奪われます。
当然、無意識下でその風景はデータ化され、いつでも再現可能な心象世界に保存されます。
これは、一種の“国誉め”という行為です。
“国誉め”とは古代日本の儀式で、「山が高い、森が深い、花が咲いている、水が流れている、鳥がさえずっている・・・」そのように、景色を細かく記述する行為のことです。
そして白川静氏によれば、この叙景という言葉の使い方が“祝福”のもっとも太古的な形態であり、祝福するとは、本来そういうことだというのです。
土地を祝福することで、場に対する親密性が飛躍的に高まり、街が活性化していくのです。


それは経済効果という下世話なレベルの話ではありません。(NYCマラソンは1億8800万ドルにのぼる経済効果があるそうです。ワォ)
街には寿命ってものがあります。
街は生き物なのです。
しかし、高度経済成長後、大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、ファストフード店レンタルビデオ店カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並ぶファスト風土化が推し進められたことで、街は激しく傷つき、記号という呪いで身動きが取れず、生命力を低下させていきました。
大げさに言えば、その呪いを解除するために、人は走るのです。
つまり、記号をはがすのです。
それには国誉めという行為が必要なのです。(だからではないですが、聖地を走るランナーも多いですが、幹線道路を走るランナーも少なくありません)

つまりランニングは、「祝い」と「呪い」に深く関係した呪術的行為でもあるのです。

というのも、一方の呪いについては、資本主義との関係から説明できます。
ランニングは意外と資本主義と親和性が強いスポーツです。
なぜなら、ランニングは数値化できるからです。
走った距離はもちろん、タイムも、時速、消費カロリーさえも計測できます。
ランナー同士の会話は、キロ何分というフレーズから始まるほどです。
ビジネスマンがマラソンに興じる理由もわかります。
しかし、数字のみに囚われてしまったランナーは、祟られます。
プロのランナーのほとんどは故障していますが、それは数値化と無関係でありません。
市民ランナーでも、月間500km走ることや、キロ4分などのペース走にこだわる人の多くは、故障します。
資本主義が「カネの多寡で人や能力をできる」という呪いであるように、ランニングも数値という記号化によって呪いとなって自分にかえってくることになります。

藁人形を想起されればわかりますが、呪いはその本質からして記号的なものです。
あらゆる呪いは抽象的で、一般的で、反復的です。
数字は記号の最たるものです。
呪いとは記号化の過剰によって発生します。
人間を生身の、骨肉を備え、固有の歴史を持つ、個性的な存在だと思っていたら、呪いはかかりません。
呪いというものは、人間の厚みも深みもすべて捨象して、1個の記号として扱うことです。
暴力は生身の人間ではなく、記号に対してふるわれます。
だから、タイム至上主義は危険なのです。
自分自身に対して振るう暴力は際限がありません。
記号を追い求めれば追い求めるほど、暴力は激しくなります。
そして、故障するのです。(故障すら、まるで機械をさすかのような記号化したフレーズです)



私たちはランニングを通して、記述すること、写生すること、列挙することを終わりなく続けていくことで、街を生命を吹き込むことができます。
そして、弱さや愚かさ、邪悪さを含めた正味の自分を受け容れ、承認し、愛する。
つまり自分を「祝福」することでしか呪いを解く方法はありません。
なぜなら強さは幻想でしかなく、弱さだけが本物だからです。
4年前に第1回大会が開かれた東京マラソンを機に、奈良、大阪、神戸、京都と、市民参加の都市マラソンは百花繚乱状態であることはご存じの通りです。
もちろん、このような大都市だけでなく、規模や場所を問わず、ありとあらゆる地域でマラソン大会が開催され、その数は2010年には、約500に及びます。
しかし、それは日本を蝕む病理の深刻さの裏返しでもあり、日本の悲鳴なのかもしれません。
ランナーよ、内なる声に耳を傾け、大地を躍動せよ。