3.11と9.11

いつからだろう?東日本大震災を「3.11」と呼んで違和感を覚えなくなったのは。

3.11という表現は、アメリカで起きたテロ「9.11」を意識してのものであることは小学生でもわかる。
9.11との対比なしに、3.11というフレーズが流通することはなかっただろう。
では、3.11と9.11にはどのような共通点があるのだろうか。

結論を先に述べると、3.11と9.11は、日米それぞれの国の安全神話を崩壊させ、「見えない敵」への不安を生み出したという共通点をもつ。
アメリカは史上初めて本土が攻撃されたことで、姿の見えないテロリストの脅威に怯えた。
日本は安全と言われ続けた原発が人類史上最悪とも言える事故を起こしたことで、放射能の恐怖に怯えている。
悲劇の後には、どちらの国でも社会の一体感が高まった。
それは「悲しみの共同体」とでも呼びたいものであるが、不安の裏返しであることは否めない。
何よりも3.11は9.11と同じく、歴史の境目として受け止められた。
アメリカは覇権国家としての威信を失い、世界を混乱に陥れた。
日本は、原子力という生態圏外テクノロジーからの離脱という未知の領域に踏み出すことになるだろう。


しかし、なぜ記号化する必要があったのだろうか?
福島原発事故とか、同時多発テロ(この呼び名は一時的に流通したが、今はとんと聞かない)ではなぜだめだったのか?

過去を紐解くと、記号で事件を表象したものとして、5・15事件と2・26事件と、5・4運動と3・1独立運動の4つの事件が思い浮かぶ。
前者は日本国内のテロ事件で、後者は中韓における反日過激デモである。
前者は政党政治からファシズムへと右傾化した事件だし、後者は民族主義を錦の御旗とした植民地の独立運動という歴史的意義を帯びた事件だった。
もちろん、そこには歴史の断絶があるし、テロや民族主義という見えない敵が存在することも記号化の要件として共通する。

しかし、3.11と9.11に上記の4つの事件を並列することで、記号に内在する、というより記号に隠蔽された本質的な問題も浮かび上がってくる。
暴力と国家である。
暴力と国家が結びついたときに、記号が発生するという帰納的な事実である。
記号化というのは、個を抹殺する暴力の一種である。
なぜなら、他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な重力のない、記号に見えるときだけだからである。
だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを記号化する。
「異教徒」であれ、「反革命」であれ、「鬼畜」であれ、「テロリスト」であれ、それはすべての人間の個別性と唯一無二性を、その厚みと奥行きとを一瞬のうちにゼロ化するラベルである。
そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた人間の身体だと思っていたら、人間の身体を短時間に、効率的に破壊することはできない。
私たちにはそういう制御装置が生物学的にビルトインされている。
つまり、日本人には、いや世界の人々から見ても、東日本大震災は国家による暴力と映ったのではないだろうか?
もはや原発は誰もが人災だと考えている。
だから、3.11と言い表したのだろう。


あくまでこれらは私の推論であって、このように、記号とは象徴学という学問があるように、無限の解釈を可能にする。
注意しなければならないのは、事件が社会をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにあるということである。
つまり、記号化という呪いを解除するには、記号的な解釈を超える物語を創造する必要があるということだ。
アメリカが9.11で変わったと思えたように、日本は未曾有の国難を前に団結し、底力を発揮して新しい社会をつくる時が来たという前向きなものが、緊迫した空気の中に感じられた。
しかし、期待はいつのまにかしぼんでいた。
これらの事件を言語化できなかったからだ。
いつまでも手をこまねいて、記号という呪詛の積層化を放置すれば、4つの事件や9.11の時のように、より大きなカタストロフが襲うだろう。
まだかろうじて3.11という呼称に違和感があるうちに、政治家や訳知り顔のコメンテーターやあなたの周りにいる声の大きな人ではなく、自分自身の言葉で物語を紡ぐことから始めていきたい。
そう、3.11と9.11が交差する11月11日を前にふと思った。