陰陽師

聖武天皇桓武天皇平城天皇醍醐天皇など、怨霊に取り憑かれ、精神に不調をきたした天皇は数知れず。


悔しいが、いくら大きな声で、いくら微細に、いくらおどろおどろしく語ろうが、映像には敵いません。百聞は一見に如かずということで、古代都市民の心象世界を描いた『陰陽師』を使ったビデオ学習を実施しました。


この映画を生徒に見せるのは初めてでしたが、
時代背景の理解も、エンタテイメント性も兼ね備えたマルチな自信作です。
そして、自信ある教材というのは、生徒の反応がリアルに再現できることと同義なので、ある程度想定の範囲内のリアクションがみられたのですが、特筆すべき想定を超越した反応がいくつかあったので、備忘のためここに書き記すこととします。


1つめは、生徒の反応が一番大きかったシーンが、
早良親王の怨霊が暴れる時でも、
祐姫が生成と化して、藁人形に釘を打ち付ける時でも、
安倍晴明と道尊との直接対決でもなく、
小泉今日子の首と背中に針を刺すシーンであったことです。
静かに、ゆっくりと、針が皮膚を通過して、肉体に埋められていく
ただ肌と針だけが画面いっぱいに映し出されたシーンに
身をよじり、悲鳴がこだましたのです。

生徒達は、おそらくその映像を通じて、
その肌触りや、痛みや、針の冷たさまでリアルに追体験をしたのだと思います。
私は身体に直接働きかける感覚的な映像がもつ、その想像以上の効果に驚きました。
それは、『トレインスポッティング』がヒットしたときの恐怖に近いものかもしれません。

こうした刺激に慣れてしまえば、他の刺激では物足りなく感じてしまうし、
思考という迂回路を経由せずに直接身体化された情報が多用されてしまえば、
思考停止社会はいとも簡単に実現してしまうでしょう。
現に、それが進行していることの証左が、マルチメディアの申し子の彼らの姿なのです。


生徒達は分からないという状態を激しく嫌悪します。
だから、考えることも拒絶する。
考えるとは、一時的に秩序を崩し、秩序を再構築する作業だからです。
たとえ一時的であっても、全知全能な"私”を崩しかねない知識や思考なるものには見向きもしません。
偏差値の低い高校だから、授業なんてろくに聴いていないのだろうと勘違いされては困ります。
生徒達は、分からないもしくは分かりにくい授業には
徹底的に精神が折れるまでクレームや罵詈雑言を浴びせかける。
分からないという不安定さを忌避しているというのは、
自己の万能性を失うことへの恐怖の裏返しなのです。

だから、分かる分からないという尺度を超越した、ただ感じればいい感覚的な映像は恐ろしいのです。



2つめは、安倍晴明が唱える祝詛は漢字が多用され、
道尊の唱える呪詛はカタカナが多用されていることです。
生徒もその違いに気づき、呪いの本質に気づいたようでした。
呪いとは、つまり記号化です。
他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけです。
だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」します。
なぜなら、人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を感じてしまうと、人間は他人の身体を毀損することができないからです。
私たちにはそういう制御装置が生物学的にビルトインされている。
カタカナという意味をもたない表音文字によって呪いをかけ、
漢字という意味が具現化した表意文字によって呪いを解くというのは、
非常に理にかなっており、人類学的英知に基づいた素晴らしい映画だなぁと改めて感嘆したのでした。


3つめは、恋する人に「月をプレゼントしたい」と詠うロマンチズムに酔ったという事実です。
即物的で、合理的で、無教養な生徒が、
平安貴族の恋愛作法に憧れを抱いたのです。
「月をプレゼントしたいなんて、素敵」ってな具合です。
生徒は、セクシーさもなく、まどろっこしくて、知性を必要とされる
高尚なエロチズムの方に、今までにない快感を感じたのでしょう。
エロを記号化して、商業資本主義ベースで商品化されることに
うんざりした彼らの本能的な叫びというか、つぶやきなのかもしれません。


偶然に選んだ3つのトピックですが、
「身体」・「記号」・「資本主義」、これらこそ、現代における怨霊なのかもしれない。