愛校心

教師をやっていて一番腹立たしいのは、反抗する生徒でもなく、能力のない教師でもなく、マネージメントできない管理職でもなく、事なかれ主義の私でもありません。
「どうせ○○高校やし・・・」、「この高校、終わっているし」、「しゃーないやん、○○高校やし・・・」という捨て台詞を耳にする瞬間です。
この言葉に含有される毒は、全身の力を虚脱させるほどの虚無感、さらには敗北感までももたらします。
さらに厄介なことに、これらは空気感染し、感染力は並大抵ではありません。
一旦感染してしまうと、それは学校文化となって、次世代に引き継がれ、負のスパイラルに陥る。
良くも悪くも魂は受け継がれ、伝統として根付いていくことになるのです。
そうなったらもう手遅れ、いわゆる底辺高という烙印が押されます。
そこでは、生徒の可能性を開発し開花することより、綱紀粛正を徹底することが優先されるようになる。
前近代的なフレームで象られた指導で、ポストモダンな教育は機能しません。
だから、底辺高、別名教育困難高と呼ばれるのです。

その教育困難高と呼ばれる学校には、学力や経済力などにはグラデショーンがあれど、共通するマインドがあります。
というよりこのマインドが底辺校を底辺校たらしめているのだと私は考えます。
それが、「どうせ○○高校やし・・・」、「この高校、終わっているし」、「しゃーないやん、○○高校やし・・・」というつぶやきに凝縮されているのです。
大澤真幸は、「ネーションは直接に接触することのない者同士が、同じ社会的な空間に属しているという実感なしには、成り立ちえない」と述べていますが、ネーションを学校と読み替えても、何ら違和感がありません。
つまり、実感というひどく曖昧で、もろく、主観的なものが学校文化を形成しているのです。
それだけに、この負の連鎖を断ち切るのは容易ではありませんが、先に引用したナショナリズムという補助線を引くことで、糸口が見えます。
キーワードは、愛校心です。


愛校心とは、まず、「同じ社会的な空間に属している実感」を抱くことで生じます。
一人一人がただ高校大好きになればいいのではなくて、お互いに特定の学校像を共有しなければ、愛校心は生まれません。
学生、教職員、そして卒業生、あと強いてあげると地域住民。
こういった学校構成メンバーの間で、「これこそ○○高精神だ!」といったイメージが共有されることで意味をもつのです。
かっこよく言えば、「組織の構成メンバーの間で、特定のアイデンティティが共有されている状態」です。

ただし、忘れてはならない大前提があります。
それは、その学校が安全かつ安心できる空間であることです。
NHKの調査によると、「日本に生まれてよかった」と答える割合は92%というハイアベレージを記録するそうです。
しかし、この数字は、突出して高いわけではなく、この調査に参加した34の国と地域の中の、だいたい2/3にあたる22カ国で90%を超える人が自国に愛着があると答えています。
そして、この22カ国に共通する特徴が、ある程度豊かな先進国であるということです。
つまり、ある程度治安が保たれ、経済的困窮のない、安全かつ安心できる場所は必然的に愛着を感じるよう生物学上プログラムされているのかもしれません。
なぜなら、いくら何でも、暴力、騙し合い、盗みが恒常化した空間に愛着を感じることはないでしょう。
感じるとすれば、それはスラムの頂点に立つ一部の人間だけです。
ですので、まず、安全と安心が確保されているという前提で話を進めていきます。


さて、アイデンティティについて言及し始めた所でした。
「特定のアイデンティティ」というものを、愛校心という型にあてはめて具体的な実感に翻訳すると、「ああ、なんて幸福な人生なんだろう。私が幸福であったのは、この学校で過ごしたおかげだ(った)」という愛情に近いものになります。
そして、それは愛国心と酷似する感情です。
ですので、ここからはナショナリズムという補助線を引くことで、建設的に愛校心を涵養する方法について考えていきたいと思います。


国家というものは、国民のイメージの上に成立する想像の共同体です。
ナショナリズムは、本来雑多である個人を言語・歴史・敵という濾過装置でふるいにかけ、国民という偶像をつくりあげます。

具体的に、標準語という同一言語を運用することで、同じ文化に所属することを確認し、同じ情報を共有することで世論が形成されます。
ですから、どのような言語を選択するかということは、想像の輪郭を縁取る極めて重要なツールなのです。
例えば、方言という言語は、日常の感情言語に過ぎないので、本当に狭い世界しか見ることができない。
公的な言葉を使うことによって、そこに歴史意識が入ってきて、理性が宿るのです。
つまり、学校では、公共性を帯びつつも学校という集団の中でしか通用しないグローカルな言語を推奨していかねばならないのです。
「ダルい」、「ウザい」、「キモい」はもちろん禁止。
「ダルい」とは、日常の閉塞感を打ち破る魅力的でわかりやすい出口を召喚する呪文のようなものです。
なぜなら、ダルいの後には、「何かおもろいことないの?」というセリフがまるで連歌の下の句であったかのように「ダルい」という上の句にぴたりとあうからです。
それに対して、おもろいことを求める好奇心はあるが、それに立ちはだかるのが、「ウザい」、「キモい」という閉鎖的なフレーズです。
これらの言葉の裏には、3〜6人程度の四六時中行動を共にするメンバーで構成され、村社会のロジックに支配されたグループの存在があります。
心にダイレクトに触れる「ウザい」、「キモい」という言葉は、グループを守護する結界なのです。
こういった一歩身を引いた閉鎖的なタームを捨て、主体的かつ開放的なワードを開発しなければ、呪いを解くことが出来ません。
言葉遣いを矯正するだけでアクセスできる文化水準はあがり、ネットワークは広がる。
そして、そこで獲得した情報を共有することで、グローカルな学校言語がうまれます。
その言語に誇りが持てたとき、愛校心がにょきにょきと頭をもたげるでしょう。


そして、その愛校心を育てるのが敵、いわゆるライバルです。
仮想敵が存在するとき、かつライバルが強ければ強くほど効率よくレベルアップをすることができます。
ライバルというのは、己の力量を向上させるために必要であるし、自己を理解するためにも必要なのです。
世間で武士道や宮本武蔵がもてはやされるのは、決まって外国との軋轢が生じ、日本人としてのナショナル・アイデンティティが問われる時期です。
世界という他者と向かい会わざるを得ない状況で、日本人は始めて「日本という自己」を意識させられ、自らの存在を問われます。
その他者との比較によって始めて、「これこそ○○高精神だ!」といったイメージが投影され、愛校心がビジョン化するのです。
「自分とは何か?」
愛校心のない子ども達にとって、この問いは東大入試を超える難問です。
推薦入試になると、答えられなくなってフリーズする生徒が続出します。
自分とは○○高と関連づけることができれば、簡単に説明できてしまうにもかかわらず、愛校心がないためそれができない。
早稲田大学と慶応大学が(おそらく意図的に)互いを仮想敵国化し、早慶戦を学校行事としているのは、そういった教育的配慮に基づくものであろう。
全国一・二を争う愛校心の高い2つの大学は敵であるがゆえにそれは必然の結果なのです。


しかし、負の歴史が蓄積した教育困難高で一番厄介なのは、歴史です。
誇るべき歴史を持たないため、統合のシンボルとなるナショナルヒストリーが描けないのです。
いわゆる物語がないのです。
言語も敵も、点であっては意味がない。
それらを積み重ねた物語がいきづいて、初めて愛校心は生まれます。
だから、歴史をもたないものは、理念を持たねばなりません。
アメリカという国家のように。

この学校はどのような召命を託されてこの世に存在するのだろうか?
この学校は開花することを待望しているどのような潜在可能性があるのだろうか?

と、いつも問いかけるのです。
答えはでないかもしれません。
しかし、問い続けることで、教育現場について「好奇心」と「ささやかな敬意」が生まれるでしょう。
それらを足がかりにして、理想の教育現場を想像していく営みこそ一番大切なのです。

適切なタームで理念を胸に問いかけ、戦う。
「この学校で成長できた」、「この高校じゃなかったら今の自分はない」、いつかそんな言葉を聞いてみたい。