3C無用論

ギリシャに端を発したEU問題、金融支配に反旗を翻すウォール街デモ、イスラム諸国の民主化革命、そして日本の反原発のうねり。
今、世界が動き出した。
デモは世界80カ国以上、1000の都市を上回るらしい。(10月16日朝日新聞朝刊)
その勢いは止まりそうにない。

理由は明らかだ。
行き詰まる世界経済と格差の拡大に対して不満が爆発したのである。
この2つの現象はトートロジーにすぎず、とどのつまり、新自由主義の帰結であることに異論はないだろう。

しかし、政府を初めとした政財界は、処方箋は更なる経済成長しかないという。
この考え方こそ、諸悪の根源だと思う。
「もう経済成長はありえない」というラディカルな前提に立たなければ、問題は永遠に解決しないだろう。
よく考えみて欲しい。
人口が減るのに、どうやってGDPを増やすのだ?
経済学者でなくとも、GDPが減少することは予想できる。
歴史上、人口減の社会が成長したことは一度もない。
たった一度もだ。
何を根拠に、経済成長を語るのか?

産業革命やIT革命に匹敵する技術革新が起きるのか?
NOだ。
未開の地などない現代で、これ以上市場を開拓できるのか?
NOだ。
サブプライム・ローンで瀕死の重傷を負ったなか、更なる資本強化を金融界はできるのか?
NOだ。
そもそもモノが行き渡った現代で、これ以上一体何を売ればよいのだ?

車か?携帯電話か?薄型テレビか?

これら3C(car,celler phone,color television)は、21世紀の日本経済のシンボルだ。
3Cなくして現代は語れないといっても過言ではない。
そして、その3Cの動力が原発だった。
原発は、無尽蔵の電力を供給し、究極の発展をもたらすメシアだった。
その動力を失った日本社会は一時的に狂騒に陥った。
至る所で不毛な反原発原発推進論争が展開されている間も、放射能ダダ漏れ状態は続く。
荒ぶるメシアの脅威の前に、日本はおそらく原発を捨てることになるだろう。

そして、それは経済成長との決別でもある。
その手始めが原発の申し子というべきcar,celler phone,color televisionを無用化することだと私は独善的に考えている。
脱原発に向けた私の具体的なアクション、それが3C無用論。

しかし、行く手を数多くの困難が待ちかまえていることだろう。
今、私の家にはテレビがないが、それだけで変人扱いを受ける。
みんな、テレビなんておもしろくないとか口では言っても、テレビと縁を切るとなると話は別のようだ。
若い子らにその理由を問うと、「テレビがないといじめられる」らしい。
つまり、共通の話題を喪失することを恐れ、出来合の既成品で、代用しているのだ。
話題など自分たちで作ればいいのに。
特に、知性や生命力が停滞している者ほど依存度は高い。
なぜなら、自ら世界を用意することができないし、世界を共有することすらできないからだ。
誰でもわかることを前提に作られたテレビなら、自己劣等感を感じることなく、空白を埋めることができる。
その代償として、日本社会は教養を失うことになった。
教養ブームはその裏返しだろう。

車ももうすぐ売り飛ばすことになるだろう。
新車のプリウスだが、ためらいはない。
人は口々に言う。「車がなければ生きていけない」と。
本当にそうだろうか?
私たちが車のある生活を選択しただけだろう。
車に乗らねばいけないような場所にあるスーパーなど半年間誰もいかなければ早晩つぶれる。
(フロー中心の経営を行っていることは一目瞭然)
我々は、自分で依存を深めているだけだ。
車がなくなれば、地域の小さな共同体が復活せざるをえない。
経済成長なきあと、日常の営みの中心は地域にシフトせざるをえないだろう。
それに、高齢化社会が訪れる日本で車を野放しにするということは、走る凶器を容認することと同義である。
だから、日産やスバルなどの企業は必死になって自動運転技術を開発しているのだろう。

携帯電話も近いうちにipadにする予定だ。(これは妥協か)
私は、サラリーマンを辞めてから1年ほど携帯電話を持たなかった。
その経験から行って、携帯電話は生活必需品でない。
なぜなら、思い出して欲しい。
携帯電話が急速に普及した西暦2000年前後を。
何かやましいことでもあるのか、免罪符のように吐かれた呪祖は、「みんながもっているから」。
つまり、みんながもっているから必要であって、みんなが持っていなかったら必要ないものなのです。
価値というものは単体では存在しない。
価値というのは、それに感動したり、畏怖したり、羨望したりする他の人間が登場してはじめて「価値」として認定される。
無価値と見なしてしまえば価値はなくる。
携帯電話を持たなくなると、友人との連絡がとれなくなるというのも、全くの詭弁だ。
家に帰れば、いくらでも連絡が取れるからだ。
むしろ、携帯電話を持っていた頃と比べてもコミュニケーションの総量は変わらなかったはずだし、フラジールな関係になったことで、一段と人間関係に繊細な神経を払うことになり、円滑になった。
一番の副産物は、家の存在価値が高まったことだ。
家に帰り、留守番電話とメールの確認するのが日課となったし、家に帰るから家族(この時は弟と同居していた)とのコミュニケーションも増える。
家族という制度の崩壊と携帯電話の普及は、おそらくかなりの相関関係があるはずだと思う。
携帯電話はコミュニケーションを促進しているのではなく、むしろ阻害している。

必要でもないものを生産し、必要でもないものを買わせ、マッチポンプのごとく日本経済は延命してきた。
空気が濃密な日本だから成功した商法だろうが、世界システムが揺らいでしまった今となっては、延命しようにも血液がないのだから、手の施しようがない。

そもそも知性と地縁と血縁を失った人類に未来はあるだろうか?
3C無用論とは、知性と地縁と血縁という人類の武器を取り戻すことに他ならない。

グローバル社会で3Cを捨てて、日本は生き残れるのか?
愚問である。
前提が間違っている。
正しい問いは、生き残るために、日本は何をすべきかだ。
答えは、グローバル社会からの離脱、鎖国だ。
暴論に聞こえるだろうが、今の日本の経済成長という病を完治させるには、鎖国という劇薬を投じるしかない。
資源のない日本が鎖国したら大変なことになると思うかも知れないが、石油や資源などの必須の原料やエネルギーは、江戸時代のように部分的に交易すればいい。
いわゆる保護貿易である。
正確に言えば、鎖国という自給自足、エントロピーを最小化するようにみごとにコントロールされた、持続可能な社会システムを構築すればよいのである。
新興国をみればわかるが、門戸を世界に開放しているため、えらい目に遭わされている。
金利国債が欧米ファンドのねらい打ちにあい、インフレに苦しみ、安い賃金で長時間いくら働いても、豊かになることができない。
そんな理不尽な仕打ちに耐えることができようか。
これから、各国は「保護主義的」な外交戦略を強めてゆくであろう。
鎖国してしまえば、ファンドから身を守ることもでき、身の丈にあった成長ができる。
その先陣をきったのが、グローバリズムの旗手であったアメリカだった。
他国にはあれほど「自由貿易」のルールの遵守を求めていながら、自国経済がピンチになったら、たちまち保護主義にシフトしようとしている。
アメリカがそうなんだから、これからあと諸国は「右へ倣え」である。


経済成長という物語は終わった今、鎖国という新しい一歩を踏み出すには、新しい物語が必要だ。
いつの時代も人は、幸せになりたいと願う。
その幸せとは形があるわけではなく、古今東西まちまちだ。
しかし、幸せを彩ってきたのは、物語だ。
物語なしでは、人は生きることすらおぼつかない。

いつの時代も物語を書き換えてきたのは宗教だった。
だから、これからしばらくは霊的な時代を迎えることになるだろう。
古代から中世への転換点には鎌倉仏教が、江戸時代が始まる近世は、朱子学という官制宗教に書き換えられ、近代は天皇制が、現代は経済合理主義というある種の宗教が底流にある。
脱原発ということを念頭に置くと、これからはアミニズムのような自然宗教が物語を紡ぐ役割を担うことになるだろう。
そう、それは『アバター』の世界である。
八百万の神が存在する日本にはその素地がある。

今、世界は岐路に立たされている。
万国のプロレタリア団結せよ!