神話的クロニクル

ドラゴンボール マンガ学』に触発され、半年ぶりに筆をとる決意を固めました。
「承前 街場の漫画論」としてお読みいただけると幸いです。


ドラゴンボール マンガ学』は異議申し立てから始まる。
いわく、「宮崎駿や『ガンダム』、『エヴァンゲリオン』などに比べられたら『ドラゴンボール』は一段低く見られている。」と。

ドラゴンボールはこれまでに1億5000万部を売り上げ、この数字は「ワンピース」約2億6000万部に続き歴代第2位で、同じく伝説的なマンガ「スラムダンク」1億2000万部をも凌ぎます。
また、アニメは40カ国以上で放映され、コミックスは24カ国以上で発売、関連ゲームは50を超え、ハリウッドで実写化されるなど、その経済効果は国家予算クラスです。
フランスでは、視聴率が80%を超えているのに放送中止になりましたが、その理由が、日曜の朝の放送だったので子どもが教会のミサにいかなくなったからという逸話が残るほどの人気を誇りました。
一説には、フランスで最も有名な日本人は、鳥山明であるとも言われています。
まさに桁違いのマンガです。

商業ベースでみれば、ドラゴンボールは他に類を見ないほどの成功を収めているにもかかわらず、何がドラゴンボールの評価を不当に低く見積もらせているのでしょうか?

それは、これらの数字からだけでは窺い知れないので、とっかかりとして宮崎駿や『ガンダム』、『エヴァンゲリオン』といった作品との比較を通して考えていきます。
宮崎駿や『ガンダム』、『エヴァンゲリオン』にあって、ドラゴンボールにはないもの。
それはキャラクターの内面世界を描く想像力でしょう。
ドラゴンボールの場合、心理描写の大部分が、“わくわく”、“わなわな”、“ガクガク”というたった3つのオトマトペで網羅できてしまいます。
翻って宮崎駿などの場合、哲学的な言い回し、細やかなキャラクター描写、緻密な情景描写によってその世界は創造されています。
ドラゴンボールの場合、作者自身の口から「アシスタントの子が悟空の髪を黒く塗るのが大変だっていうから、金髪にしたり・・・」だったり、「悟空達ってだんだん街で闘わなくなるでしょ?荒野みたいなところばっかりで。実はあれ、背景描くのがシンドイからなんですよ」という衝撃的な発言がなされているように、キャラクター描写や情景描写を放棄しています。
その結果、地球だろうがナメック星だろうが、荒野での戦闘シーンばかりになり、作品としての奥行きが奪われてしまったのです。
ドラゴンボールがバカにされても仕方ない気がしてきましたが、実はこうした空虚さこそが物語の推進力として機能し、このマンガの爆発的な求心力を生み出したのです。

物語の中心は空虚でなければならない。
空虚を中心にして人間の運命は形成される。
それは古くは『古事記』から綿々と受け継がれる日本的神話の基本ルールです。
日本神話においては、その基底にある3柱の神のうち、何の働きもしない無為の中心と呼べるような神が重要な2柱にはさまれて中空のような構造で存在し、神話の節目において形を変えて繰り返されて登場しているだけです。
また、神社について考えてみると、中心に行けばいくほど、何もなくなっていきます。
一応は中心に魂匣のようなものがあるのですが、そこにはたいていは何も入っていないか、適当な代替物しか入っていません。
そればかりか、神無月という暦が存在しているように、そもそも日本の神々は常住すらしていません。
しかしながら、中心が空虚であるが故に、周りのキャラクターが栄(は)えるのです。
中心が空であることで異なる価値や原理が排除しあわずに、調和を得て相互補完的に働き、共存することを可能にしているからです。
それは、桜木花道にしても、ルフィーにしても、ゴンにしても、共通しています。
彼らが空虚であるが故に、彼らの周りにはいつも仲間がいます。
いや、仲間というより、敵味方を問わず、死活的に他者を必要としています。
なぜなら、他者なしに成長はないからです。
こうしたビルドゥングス・ ロマンの話型では、成長が止まることは連載終了と同義です。
成長することをレーゾン・デートルとする主人公達は、成長し続けるために、絶えず他者を必要とするのです。
そして込み入った話を経て、多くの他者に囲まれて愉快に生きていくことになります。
このように、愉快に生きてゆくためにどれくらい多くの他者の存在を必要としているかが実はその人間の成熟度であり、優れたマンガであればあるほど、人気投票で主人公が主人公にもかかわらず後塵を拝す事態が起こりうるのです。

*少しだけ補足すると、悟空をはじめとする地球人は襞のある服装を身につけていて、仏像を想起させる衣装です。神と仏の違いこそあれど、そこは神仏習合の日本人です。また上述したとおり、神は空虚です。空虚でなければ神でないといってもよいくらいです。無を志向する仏教などは、その最たるものでしょう。つまり、悟空(サイヤ人)、ピッコロ(ナメック人)、天津飯(三つ目族)、亀仙人(仙人)、クリリンなど(人間)とは、八百万の神々の仮象だったのです。


この空虚であることを徹底させたのがドラゴンボールであり、キャラクターの心理描写はもちろん、情景描写も、作者のフィロソフィーさえ邪魔だった。
それゆえに一見すると、作者の思想性の欠如に見えます。(本当にそうなのかもしれませんが・・・)
たしかに鳥山明自身もコミックス第一巻で「細部やラストはいきあたりばったりでつくっていこうと思っています」と述べたり、「いろんなことの理由づけなんかも、よく考えたなって思いますよ、あんなに後付けで描いていたのに」と述べているように、いきあたりばったりであることを認めています。
しかし、ドラゴンボールが連載されたのは1984年〜1995年という年代はまさに、ポストモダン全盛期です。
つまり、「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件(構造)が私たちの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」とする構造主義が流行した時代です。
ドラゴンボールという物語においては、キャラクターそのものが空虚であるがゆえに、否応なしに構造がキャラクターを造形せざるをえないのです。
鳥山明が自覚的にそれを行っていたとするならば、それは十分に思想的であるといってもよいはずです。
そうでなくとも、構造主義の思考方法があまりに深くものの考え方や感じ方のなかに浸透してしまったために、その発想方法そのものが自明なものになっている点において、すでに思想的なのです。
そうした可能性を排除して、思想的に無価値と断定するのは拙攻でしょう。


では、その構造とは何でしょう。
ドラゴンボール マンガ学』を参考に、ドラゴンボールの全体構成をまとめると以下のようになります。

【地球編】
西遊記篇・・・1〜23話
天下一武道会篇・・・24〜54話
レッドリボン軍篇・・・55〜96話
占いババ篇・・・97〜112話
第22回天下一武道会天津飯)篇・・・113〜134話
ピッコロ大魔王篇・・・135〜161話
第23回天下一武道会(ピッコロJr)篇・・・162〜194話
【宇宙編】
サイヤ人篇・・・195〜242話
フリーザ篇・・・243〜328話
【未来編】
人造人間篇・・・329〜357話
セル篇・・・358〜420話
【魔界編】
グレートサイヤマン篇・・・421〜436話
魔人ブウ篇・・・437〜519話


【地球編】→【宇宙編】→【未来編】→【魔界編】という流れは、まさしく人類の歴史そのものです。
【地球編】とは、仙人やピッコロという神的存在を超越するというテーマをもったまさに中世から近代への転換期そのものです。
ニーチェではないけれど「神は死んだ」ことによって、人類は地球が丸いことを知り、大航海時代が訪れる。
【宇宙編】とは、宇宙を舞台にした大航海時代であり、サイヤ人フリーザ一団が異民族を侵略するさまはかつてのスペイン・ポルトガルなどを彷彿とさせます。
暴力という直接支配ではなく、市場による間接支配によってヘゲモニーを獲得したのはイギリスですが、そのイギリスで世界初のイノベーションとなる産業革命が起きます。
産業革命以後の世界は、科学が世の中を便利にするという信憑が深く浸透し、科学万能の時代が続きました。
それが、【未来編】と重なります。
人造人間もセルも、ブリーフ博士も驚くほどの最先端技術が結集した科学の分身のような存在です。
光線のような武器がない代わりにいくら戦ってもパワーが減らない「永久エネルギー炉」がある人造人間17・18号とは、まさに原発そのものです。
セルが現れた時に神をピッコロとの融合に踏み切らせたのは「今の地球に必要なのは神ではない・・・強者なのだ。」という決意であって、グローバル社会で何度も聞かれるようなセリフでした。
このように【未来編】ともなると、いくつかの点で現代にオーバーラップするのですが、もう一点目につくのがファッションです。
これまでのドラゴンボールでは現代風の衣装を着ているのは、ブルマぐらいだったのですが、人造人間17・18号はおしゃれな現代風の衣装を身にまとっています。
実は現代的であるのは外見だけではありません。
人造人間達は、レッドリボン軍を壊滅させた孫悟空を殺すという目標をもって人造人間を造り出されたので、ゲロが死んだ時点でその目標、つまり存在意義を失いました。
そこで、「ドクター・ゲロのいうなりになるのもシャクだが、オレたち人造人間もとりあえず目標がほしいからな」と言って、車に乗って悟空を探し始めるのです。
このあたりは神なき後の世界で「生きる意味」を求めて自分探しをする現代人と同じなのです。
自覚的かどうかは別にして鳥山明は、現代に対する警鐘を鳴らしていたのかもしれません。
それを無視した結果(?)、連載終了の1995年には地下鉄サリン事件が起きました。
これは【魔界編】につながります。
これまで力を尺度とする世界で蓄積したものとは違う論理で動いているダーブラやブウの世界では、悟空たちは為す術もありません。
そこで窮余の策としてひねくりだした最終奥義がフージョンやポタラといった非科学的な技でした。
科学絶対主義に対する懐疑を抱いた若者達が、そのアンチテーゼとして、「空中浮遊」や「水中クンバカ」を売りにする呪術的なオウム真理教を筆頭にした新宗教に救いを求めるようになった点において類似しています。
世界には終わりもなければ外部もなくなり、オウム的な革命も失敗した。
そして最後に向かった先は、ブウの身体の内部という内宇宙でした。

宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』で次のように述べています。
「グローバル/ネットワーク化でひとつにつなげられた世界にはそもそも外部は存在しない。〈いま、ここ〉だけが無限に広がるこのリトル・ピープルの時代の新しい世界においては、私達は〈いま、ここ〉に潜ること、徹底して内在的であることが逆説的に超越に接近してしまう。」

あまりに先進的すぎて、鳥山明自身も消化不良気味に持てあましてしまいましたが、鳥山明の直感したとおりの時代にいま私たちは生きているのです。
ドラゴンボールとはいわば“近代的叙事詩”なのです。
そんな時代をどう生きるべきかは、悟空そのものがメッセージとなって私たちに迫ってきます。
そしてそれは、ポストモダン的なカリスマ経営者スティージョブズの思想とも通底しています。


「わくわくしてきたぞ!」



これでもドラゴンボールは一等劣った物語と言えるだろうか?