一億総若者化社会

世界を覆い尽くしたデモは、世界に内在する格差を浮き彫りにした。
富というものは余剰物を独占したり、簒奪することでしか達成されないものだから、格差はその起源からしてあらかじめ世界の設計図に書き込まれていたのだろう。
しかし、時代というパラメーターとは無縁ではなかった。
宗教であったり、ジェンダーであったり、身分であったり、能力であったり、様々な因子が作用して、格差は転移を繰り返して世界を蝕んできた。
日本では、そうした病理の多くは外圧というショック療法をもってして治癒されてきた歴史をもつが、欧米では権利や自由の獲得と不可分の関係にあり、進歩という概念と結びつけて考えられてきた。

ところが、今回のデモが厄介なのは、その担い手の多くが若者であることからもわかるように、世代という因子が大きく作用しており、世代間闘争の様相さえ見せている。
つまり、先行世代に富や職を独占されて、若者に分配されないという不満だ。
オレオレ詐欺は、現在進行中の闘争の兆候だったのかもしれない。
富を退蔵する先行世代に対する闘争の火蓋が切られた。

戦いの作法は若者流である。
若者という弱者、被害者のポジションを決して手放さない。
若者という立場であれば、あらゆることに異議申し立てできるし、文句も言える。
なんで大人はこんなものを作ってきたんだと言えばいいだけだから、気楽なものである。
それゆえ、すでに若者は「被害者は全能である」というドクサを血肉化してしまった。
誰もが「被害者」の立場を先取することに血眼になり、その被害を敵に認めさせることができれば勝利だと考えている。
しかし、それでは社会的不備の原因を質し、解決策を講じるという建設的な方向には向かうことはない。
だから、子どもなのである。
先行世代にいくら不満をぶつけても、それは子どもが駄々をこねているのと変わらない。
はっきり言って、定数的な年齢は老若を表象すらしなくなっている。
若者であるかのようにふるまう、つまり、被害者の立場を発想の起点にしている者はすべからく若者なのです。
ただ日本の場合まだ、そこまで事態は逼迫していないため、お気楽な雰囲気がある。
本来、若者にとって貧困は現在の問題ではなく、未来の問題であり、本当に問題になるのは若者が若者でなくなったときだからである。
日本の若者は、食うに困るほどの貧困にまで転落していない。
まだ未来の問題だから、腰がすわっていないのである。
誰でも高価なスマートフォンを持っているし、生活に必要なものは何でも一式そろっている。
世代内格差が始めて意識されるようになるのは、進学という場面においてである。
それまで若者達はお気楽なのである。
だから、デモもその場の熱狂でしかつながらないお祭り気分が抜けきらないのです。


では、格差問題はどこに向かっているのだろうか。
社会的不備を質すこともなく、加害者を糾弾することで得られるのは「金」だけである。
社会的資本は蓄積されないので、子どもは子どものままである。
相変わらず最小限の努力で、最大限の成果をもとめるし、(ノーベンという単語は一種神聖化されている)自分なりの度量衡を捨て、同調性のみを追求し、(そこではただ「共振的なコミュニケーション」が無限ループされている)仲間がいる小さな世界が絶対化される。
追い込まれると「なんとかなるやろう」と開き直り、事態をただ先送りさせるだけさせて、最終的に破綻する。
何度も見てきた光景だ。
ロラン・バルトが指摘しているとおり、「無知」というのは単なる知識の欠如ではなく、そのつど力動的に、主体的な関与を俟って構成されている。
人は断固たる決意のもとにおのれの無知を構成するのであって、怠惰や不注意のために無知であるわけではない。

不確かなアイデンティティを補うために共同性に寄り添う若者。
自分らしさが不確かだからこそ、共同性に亀裂の入る可能性がある「勝ち負け」よりも「一緒に盛り上がる」ことを重要視する。
そして、盛り上がるためには自分というものは一貫していなくてもいい。
だから、いつまでたっても子どものままなのだ。
彼らにとって、「努力する人って、重苦しい。傍にいるだけで責められているような気がする」そうだ。
今の自分を肯定することで自己防衛し、被害者としてルールの無効化を要求する。

しかし、もういい加減に気づいてもいい頃だろう。
まだ気づかないようなら『星の王子さま』でもよめばいい。

「本当に大切なものはね、目には見えないんだよ。 」

どのような社会でも能力の差があり、条件の差がある限り、社会的リソースの分配において多寡の差は発生する。
問題を深刻にするのは、そのときに、「自分の取り分」について占有権を主張することは「政治的に正しい」と見るか、「疚しさ」を感じるか、そのマインドの違いである。
原理的な言い方をすれば、貧困問題というのは富貴問題と対になってしか存在しない。
どのように資源が貧しくとも、共同体の中で、子どもや老人や障害者にも資源が公平に分配されるシステムを有していれば、その社会に「貧困問題」は存在しない。
新石器時代に「貧困問題」は存在しなかったはずだし、レヴィ=ストロースが観察したマトグロッソインディオたちの社会にも「貧困問題」は存在しなかった。
人々が共同体の存続を最優先に考えるときには貧困問題は存在しない。
というのは、そのとき共同体に「弱者」として含まれる幼児や老人や病人や障害者はいずれも共同体のすべてのメンバーにとって「かつてそうであり、これからそうなるかもしれない」存在様態だからである。
あらゆる成員はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人あるいは障害者あるいはその両方になる。
だから幼児を養い、老人を敬し、病者や障害者に配慮するというのは、自分自身に対する時間差をともなった配慮に他ならないのである。
私たちは近代市民社会の起源において承認された前提が何だったかもう一度思い出す必要があるだろう。
それは「全員が自己利益の追求を最優先すると、自己利益は安定的に確保できない」ということである。
この経験則を発見した人々が近代市民社会の基礎を作ったのである。
世代間闘争は不毛な戦いである。