ウィズコロナ

マスク必着の授業。※1
準備体操のない水泳教室。※2
入場制限されたジム。
無観客のプロ野球

アスリートまがいの生活をしていた私にとって致命的なことは、泳げなくなったことと筋トレを制限されたことで、ライフサイクルは一変した。※3
もちろん、最大の衝撃は休校措置による在宅勤務だが、すべての当たり前が当たり前でなくなった時に、当たり前のかけがえのなさに気づかされ、再開後はすべての当たり前が愛おしく感じられた。
その一方で、「何のために働くのか」、「どうやって生きるのか」、「授業とは」、「学校とは」と当たり前を問い直す貴重な機会となった。
だからこそ、徐々に日常を取り戻していくことに対して安堵感を覚える一方、本質的に何も変わらない社会に違和感をぬぐい切れない。
日常を取り戻すこととコロナがなかったかのようにふるまうことは同義ではない。
今までの日常を取り戻していくことが目的化し、コロナで露呈した物事の本質に蓋をして、見て見ぬふりをきめこもうとしているようにさえ感じる。
現に教育現場では、あれほど前のめりだったオンラインがもうすでに蚊帳の外に置かれつつある。
また、どう考えても感染予防の観点から研修旅行などできるはずもないが、強行される。
文化祭などの学校行事も同様だ。
子どもたちの思い出を奪ってはいけないという大義名分のもと、学校は思考停止状態だ。
夏の甲子園などはその典型だろう。
別に人生で一回くらい研修旅行がなかろうが、文化祭がなかろうが、いいじゃない。
逆にそのほうが思い出に残るくらいだ。
無責任に聞こえるかもしれないが、かつて僕も大学生時代一度も学園祭が開催されなかった被害者の一人だった。
だからといって、学生生活が灰色だったかというと、全くそんなこともなく、カラフルな日常だった。
大人が考えているほど子どもはピュアじゃないし、コロナという現実も理解している。
今教育現場は夏休みや冬休みを返上して、なんとかして遅れを取り戻そうとしている。
遅れとは卒業までに教科書を教えることであり、そのぶん学びは後退した。
その証拠に、教員間の会話で「どこまで授業が進んだか」を確認することが異常に増えた。
しかし、学びの本質を知ってしまった今、教えることに執着する必要はなかろう。

コロナによって社会は変わると思ったが、社会は変わるものではなく、変えるものだ。
マスクをしてごまして生きていくのではなく、世界と関わる手段としてマスクをするのだ。
コロナとともに生きていく僕なりの決意表明であり、当事者となって世界を変えていきたい。
 

※1たまにすごい霧に包まれる。めがねとマスクは相性が悪い。
※2私が通っている水泳教室は、スクール開始前に陸地で10分程度の準備体操を行っていたが、コロナ後は感染予防の観点から行われなくなった。
※3おかげで最近おろそかになっていたランニング量が増えた。何事も捉え方次第だと痛感する。