なぜ共産党は嫌われるのか?

京丹後(京都府北部)の青々とした広大な田園風景の中に、
ちょこんとつつましく看板がたてられいた。
そこには共産党のポスターが貼られていた。


原発ゼロへ」


とても真っ当な意見だ。朝日新聞も連日同じことを言っている。
思い返せば、共産党はいつも真っ当なことを言ってきた。


「消費税増税は許さない」

社会保障・福祉制度を拡充し、国民のくらしを底上げする」

「米軍基地反対」


どれも国民願望が投影されており、
国民の多数に支持されてもおかしくないことを言い続けてきたのに、
なぜか共産党は、敬遠されてきた。
朝日新聞なら許されて、共産党だったらなぜ駄目なんだろう?


端的に言ってしまえば、
日本人が思想なりイデオロギーをもつことを恐れているからだろう。
"恐れ”はあらゆる動物のもっとも原基的な感情であって、種の保存に関わる本能だ。
日本人が共産党を嫌い、かたくなに無思想に固執している理路はこうだ。


種の保存にとって、最悪の事態は戦争です。
そして、日本人にとっての戦争と言えば、太平洋戦争である。
太平洋戦争がもたらした甚大な被害によって、国民は深く傷ついた。
そして、二度と繰り返すまいと固く誓った。
その戦争の推進力は、大政翼賛的な思想統制であったので
思想を強制してもろくなことはないことを、身をもって経験した。
敗戦は、思想という抑圧からの解放と映ったとしても不思議ではない。
一部の人は、種の保存を脅かすほどの危険な思想なら持たない方がいい
とふっきれてしまったのかもしれない。


一方で戦前の特高による共産党狩りや戦後のレッド・パージなど
アカのイメージは反国家的な犯罪者として塗り固められた。
その犯罪者達は、安保闘争革マル派の活動など
一度火をつけたら何をし出すか分からない過激な学生運動へ収斂されていった。
一見無関係にみえるオウム真理教地下鉄サリン事件
エリート学生達がフィーチャーされることで、
思想を持つことの恐怖として、物語は引き継がれ、生き続けることになった。
そして、共産党のイメージは、それ自体とは無関係に、
その犯罪性や過激性や思想性だけが想起され、膨れ上がっていった。
中身も知らず、メディアの情報で断片しか知らぬ若者達からも、
一定の距離を置かれたのは、こうした文脈と無関係ではなかろう。
そうでなければ、無知な彼らが恐れを抱くはずなどないのだから。
投票率が低さは彼らが投票していないということを意味しているかもしれないが)



無思想が歓迎されるのは、
実質的な政権運営能力をもつ政党が
自民党民主党に限定された政治状況からもみてとれる。
(それでも、55年体制の頃は思想の残滓があった。「どろどろ無原則の生活者政党」である自民党と「綱領的で倫理的に気負った社会主義政党」である社会党が6対4くらいの比率で拮抗していた)

自民党の党是は、自主憲法の制定と自主独立です。
どんな憲法をつくるのかについては二の次です。
他の国の支援なしに国家を維持できるのかなど検討されたことはありません。
そこに、思想的な匂いは感じることはできません。
「対米従属が嫌なの」と駄々をこねているこどもをみているかのようです。

民主党の場合は、「生活者・納税者・消費者の立場を代表し、民主中道の新しい道を創造します。」と言っています。
つまり、国民のニーズに応えるのが民主党なのであって、国民のニーズなど当座によっていかようにも変わります。
同じように、民主党にもこういう国を作るという思想的なバックボーンは見当たらない。

一方の共産党日本共産党綱領で、
帝国主義・資本主義を乗り越え、社会主義に前進することは、大局的には歴史の不可避的な発展方向である。」
「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破−日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。」
とはっきりと歴史観をのべ、明確な社会像を提示しています。
そこには思想があります。ビジョンがあります。


その思想性がゆえに、国民が共有している不文律に抵触し、
共産党は嫌われてしまったのでしょう。