僕が走り続ける理由

あれから、僕は走り続けている。
雨にも負けず、風にも負けずと言ってみたいところだが、
基本的に晴れの日しか走っていない。
それでも走り始めてからかれこれ半年が過ぎたことになる。


その間に、僕は、フルマラソンを経験し、(結局、タイムは5時間でした)
多くの人を巻き込み、(職場で奈良マラソンに7名もエントリーしている)
妻には「ランニング中毒や」と毒づかれながらも、走り続け続けている。


走り始めた動機は、俗物的だ。
たばこをやめて体重が増えたから。
「まったくこれだから若者は・・・」という愚痴と同じくらい使い古された言い回しである
「30歳を超えて腹についた肉が落ちにくくなった」からだ。

でも、走り続けているうちにそんなことはどうでもよくなった。
(欲を言えば、そりゃ、あと3kgくらいは痩せたい)
つまり、何かを手に入れるために走るのを、やめた。
僕は走りながら、ただ走っている。
僕は原則的には空白の中を走っている。
逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている。

新緑の匂い、季節に彩られる木々、
雲からこぼれる神々しい光や霧がかった美しい連峰に囲まれ、
風や虫や自然の音色と荒々しい呼吸だけが支配する。
それ以外に何もない奇跡のような時間が、まさにそれです。

このように、風景の中を黙々と進んでいると、
ときおり自分という人間がまとまりを失って、
だんだんほどけていくような錯覚に襲われることがある。
そんなとき、僕に付着している老廃物や
決して口に出せないような禍々しい感情や
体内に澱のように沈殿した人間の醜聞が
汗とともに洗い流されていることに、気づきます。


だから走っているのだろう。
走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、
走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。
「昨日飲み過ぎたから、今日はやめよう。」
「眠いから、明日走ろう。」
「明日は雨だから、走るのをやめよう。」
「足が痛い。これは走りすぎだ、やめよう。」
言い出せばキリがない。弱虫は、僕の至る所に寄生している。

僕は、仕事や人間関係で自己不信に陥りかねない大失敗をした日には、
いつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。
いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。
そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。
いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。


僕が走り続けられているのは、弱虫を1匹1匹根気強く駆除し、
そうした「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けてきたからだと思う。


村上春樹は、『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で、
「僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。」と言っている。


うん、走り続けるもう1つの理由ができた。
村上春樹のタイムを超えてみたい。
彼の見た世界を見てみたい。
だから、走り続けよう。