ウルトラマラソン

「あなたは100キロを一日のうちに走り通したことがあるだろうか?」と村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』でそう問うている。
そして、「普通の健常な市民はまずそんな無謀なことはやらない」とも蛇足している。
でも、村上春樹自身は一度だけ普通の健常な市民はやらない無謀なことをやり遂げている。(出版当時なので、それ以後村上春樹が回数を増やしたかどうかはわからない)
そして、僕も一度だけなんとか、普通の健常な市民はやらない無謀なことをやり遂げることができた。(現時点で)
僕は村上春樹の問いに対して、「ある」と答えることのできる数少ない酔狂な市民の1人といえる。
だから僕も、村上春樹がそうであったように「忘れないうちに」心象スケッチのような文章を書きとめておく必要があると感じた。
理由は分からないが、とても強くそう感じた。
ウルトラマラソンがそうさせるのか、僕はこれまでフルマラソンを5回完走したが、一度もそのような気持ちにはならなかった。
村上春樹が「このレースはランナーとしての僕にとって浅くない意味を持つ出来事であったことがわかる。自己に対する観照にいくつかの新しい要素を付け加えることになる。その結果としてあなたの人生の光景は、その色合いや形状を変容させていくことになるかもしれない」といっているように、「あなた」である僕にとって浅くない意味を持つ出来事だったのだろう。
だから、もうレースが終わって1ヶ月以上経過したけれど、その浅くない意味を探るためにも言葉にしなければならなかった。


そもそもフルマラソンウルトラマラソンは別競技と言っても過言ではない。
フルマラソンの場合、レース中一度も立ち止まることはない。
文字通り、スタートからゴールまでの42.195km走り続けなければならない。
なぜなら僕は歩くためにマラソンしているわけじゃないからだ。
当たり前だが、走るためにマラソンしているのだ。(こういう小さなこだわりは意外と大事で、こだわり続けると大きな自信となる)
つまり、僕にとって立ち止まるということは、レースの終わりを意味する。(一度だけフルマラソンを途中でリタイヤしたことがある)
スタートの号砲が鳴ったときから、僕の場合3時間半ぐらい、走りっぱなしになる。
とにかく気ぜわしく、給水所のスポーツドリンクでさえ、ゆっくりと口にすることができない。
おいしそうなフルーツや名物料理でさえ、わき目もふらず通り過ぎる。
トイレに行く時間さえ惜しい。
このように、フルマラソンは禁欲的なスポーツである。

でもウルトラマラソンは、なにしろ100キロだ。
いくら理性的な人間であっても、身体はそこまでストイックにできていない。
一般的にマラソンには30kmの壁というものがあって、それが補給なしで人間が走れる限界値だ。
100kmはその3倍を超える距離であり、壁は3倍どころか指数関数的に高くなる。
禁欲的であるのは、難しい。
それだけはわかるが、それ以外は、僕の予想など全く及ばない未知の領域なのだ。
インターネットでどれだけ調べても、参考になる情報はないし、身の回りにウルトラランナーもいない。
ならばルールは自分でつくろう。
自分の身体のことは自分が一番よく知っているし、これまでのフルマラソンの経験も活かせるだろう。
なにより答えはないのだ。
まず僕は、とにかく完走することだけを考えた。
このレースの目標はそれ以上でもそれ以下でもない。
というより、それ以外に考えられない。
だから、未知なのだ。
しかしながら、未知とは恐怖でもある。
フルマラソンでさえ満身創痍なのに、その倍以上走ることになるウルトラマラソンならば身体にどれほどの負荷が加わるか、想像だに恐ろしい。

臆病な僕がとった戦略は、「身体に負担をかけずに走る」ということだった。
長距離で一番恐ろしいのは、足が攣ったり、肉離れすることだ。
こうなると、もうお手上げだ。(禁欲的なフルマラソンでは、たとえそうなっても気合いで何とかなるかもしれないが、50km近くを足を攣ったまま走るなど考えるだけも恐ろしい)
それを回避するためのルールは、とにかくゆっくり長く走ること。
感覚的にはフルマラソンの半分のスピードでトロトロ走る。
そんなの簡単じゃないかと思うかもしれないが、スピードが半減すると距離は長く感じられるものであって、フルマラソンのスピードと距離に慣れたランナーにとっては拷問に近い。
それは走っている本人がイライラするほどだから、よほどのものである。

もう一つのルールが、食い続けることだ。
ガス欠を起こしたランナーは二度と走ることはできない。
僕は一度ランニング中に25kmあたりでガス欠になったことがあるが、身体の奥の方からプスンプスンという音が聞こえ、身体が全く動かなくなってしまった。
前に進まなくてはという意欲はあるのだが、とにかく身体全体が言うことを聞いてくれない。
車のサイドブレーキをいっぱいに引いたまま、坂道をのぼっているみたいだ。
あと2kmの家路だったので、なんとか走ろうとするのだが、とにかく身体が重く、足が全く動かない。
為す術がなかった。
ああなったら、もう終わりだ。
その恐怖は今でもフラッシュバックする。(それからは、20km以上走るときは必ず小銭と栄養物を携帯して走るようにしている。)
ウルトラマラソンならなおさらである。
それが正しい答えなのかは分からなかったが、レース中とにかく食い続けた。
たこ焼き、ミックスジュース、寿司、そば、ぜんざい、まんじゅう、パン、バナナ、チョコレート、コーラ、(ビールまであった!)
その作戦が功を奏したのか、一度もガス欠になることも、最終兵器である梅チューブを使うこともなかった。
このように、僕はトロトロと走り、ムシャムシャと腹一杯食べ、ガブガブと炭酸飲料を飲んだ。
ウルトラマラソンがフルマラソンとは別競技だと言ったのはこういうことである。

だからといってフルマラソンの方が優れているというわけではない。
ここんとこタイムに追われていた僕にとって、タイムから解放され、享楽的に走ることは心地よく、ランニング本来の魅力を思い出させてくれた。
ランニングの原点に回帰したといっても、よいかもしれない。
しんどさでいうなら、僕の場合、初フルマラソンのホノルルと、10年のブランク後の木津川マラソンの方がよっぽどきつかった。
冗談ではなく、足がもげると思った。
身体がバラバラになって、今にもほとけてしまいそうだった。
でも、給水所を心のオアシスにして、無心でゴールに向かって走っていた。
その時の気持ちを思いだした。
未知なる壁に挑戦する、あの感覚だ。
だから、42キロのラインをまたいで超えたときには、大げさにいえば軽い身震いを感じた。
42キロより長い距離を走ることは、生まれて初めての体験である。
この先にいったい何が待ち受けているのか、見当もつかない。
限界まで己の力を絞り出さないと、超えられない壁があることだけはわかっている。
その扉を開ける鍵は、自分自身の檻を壊すという行為だ。
扉が開いたときのその先の風景を見たいがために、絶えず自分の身をそういう場に置いてきた。
僕が人より自慢できるものがあるとすれば、それはそういう体験を積み重ねてきたことだ。


ゴールした瞬間は、喜びより安堵感の方が、むしろ強かった。
驚くほどゴールテープは軽く感じられた。
時刻は19時49分。
スタートしてから13時間19分が経過していた。
ゴールは照明がなければ分からないほどの暗闇に包まれいて、扉は見えなかった。
フル・マラソンを走っていると最後のころには、一刻も早くゴールインして、とにかくこのレースを走り終えてしまいたいという気持ちでいっぱいになる。
ほかのことは何も考えられなくなる。
でもウルトラマラソンでは、そんなことはちらりとも思わなかった。
長い時間走り続けているのだから、肉体的に苦しくないわけがない。
でもそのころには疲れているということは、僕にとってそれほど重大な問題ではなくなってしまっていた。
自動操縦のような状態に没入してしまっていたから、そのままもっと走っていろと言われたら、100キロ以上だっておそらく走っていられたかもしれない。
終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際には大した意味はないんだという気がした。
興奮するどころか、とても落ち着いた気持ちでレースを終えることができた。
村上春樹の言っていた「自己に対する観照にいくつかの新しい要素を付け加えることになる。」とはこのことだったのかもしれない。
100km走って、また一歩だけ前に進めた気がした。



以下は、レース中の僕のフェイスブック
逃げ場をなくすためと、退屈を紛らわすルーティンとして、活用。

10km付近。「頑張るな」と応援される。
これはフルマラソンではないのだ。
ウルトラマラソンなのだと自分を戒める。
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20km通過。本日3度目のトイレ。
昨日ビールを飲んだせいか、オシッコが止まらない。
(結局大小合わせてレース中に10回以上トイレにいくはめに。)
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30km。録音したオードリーのオールナイトニッポンを聴きながら通過。
笑いが止まらない。
(この後、3週間分計6時間ノンストップでオールナイトニッポン。頭の中は花びら大回転。)
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42.195km。フル走破!
これから未知の領域へ!!
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50km。ある意味、ハーフ。
関門の恐怖に怯えつつ、オードリーのせいで、ヘラヘラ笑いながら走っているため、すれ違うランナーにありえないほど声をかけられ、励まされる。(この時間帯が一番楽しかったかもしれない。ドンシコ、ドンシコ!)
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60km。限界はまだか?
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70km。頭がボーとし、腕が痺れ始める。
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もうすぐ80km。
フルマラソン2回分走ったが、まだ有森さんが言っていた限界の果てというものが訪れない。
(一番しんどかったのは、40km付近だった。今は70kmランナーが消え、孤独という敵が加わる。)
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やばい。泣けてきた。
(なぜだか泣けてくる。すれ違うランナーと抱擁したい衝動を抑えるのに必死。)
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あと10km。
丈夫で健康な身体に産んでくれたおかんに言葉にならないほど感謝。
いくぜ100km!
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13時間19分10秒でフィニッシュ!
皆さん、応援ありがとうございました。
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100kmの間、なぜ走っているのか、頭の隅の方で考え続けていたが、自分を好きになりたいからだと気づいた。
自分の可能性に挑戦し、殻を破ったとき、ちょっとだけ自分のことが好きになり、その分強くなれる。
それに、定期的に自分のことを愛撫してあげなければ、成長の栄養分が枯れ果ててしまう。
そう考えるのは、個人的な事情にもよるのだけれども、俺は20歳まで普通の人間だった。
ちょっとだけ勉強はできたけれど、大学に入ってしまえば、それさえも特異なものではなくなった。
むしろ努力でのし上がった人間だけに、努力しなくなった分、悪い意味での特異な方へ振れていた。
そんな俺にとって普通であることが最大のコンプレックスとなった。
だから20歳くらいを過ぎてから、消費税値上げ前の駆け込み需要のように、慌ててバックパッカーになってみたり、マラソンをしてみたり、ヒッチハイクやら座禅やら自転車旅行やら、人がやらないような「日常性を大きく逸脱している」負荷を自分に課すようになった。
それはコンプレックスの裏返しだったけれど、いつの間にか嫌で仕方なかったコンプレックスは成長の源になり、自分のことを自分自身で認めることができるようになった。
だから、コンプレックスを愛して欲しい、自分自身を好きになる努力を怠らないで欲しいというような話を、明日の授業で伝えたい。
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