クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ

時期を逸した感は否めないが、バレンタインを経由してホワイトデーに至る親愛の儀式が終わりました。この時期、若かりし頃に覚えた高揚感は、今となっては夢の跡。チョコレートは、腹の足しにしかならない。

何の自慢にもならないが、こういう仕事をしているせいもあって、例年”ありがとう”チョコを頂戴する機会が多い。何の感慨もなく、ムシャムシャと、アッという間に消化器官に輸送されてしまうわけですが、今年はバレンタインを取り巻く環境の変化に目を疑いました。バレンタインは、本来女性から男性に贈り物をする儀式ですが、今年のそれは、女性から女性へのチョコの贈与が、のべつ幕なしになされていたのです。(それを”友チョコ”と呼ぶことをのちに知る)男性諸君のため息は、やがてあからさまな「女子が女子にチョコやって、何が楽しいねん」と悲痛な叫びへと変じた。君たちの気持ちはよくわかる。10代の男性なら、誰もがこのビッグイベントに大いなる幻想を抱く権利がある。ところが、知らぬ間にその権利が奪われてしまっていたのです。


世の殿方は、この数奇でアクロバティックな転回に、落胆の色を隠せないだろう。しかし、私には、ファンタスティックな光景に映った。なぜなら、そこにはっきりとアイデンティティをめぐる地殻変動のうねりを感じ取ることができたからです。


レヴィ=ストロースは、「アイデンティティの基礎づけとなる人間の人間性は、言語記号の交換・女の交換(親族の形成)・財サービスの交換(経済活動)の3つのレベルのコミュニケーションで構築されている」と言っています。人間は、本能的に成熟の手だてとして原初より、儀式などを通じて極めてシステマティックに、人間活動にこれらのコミュニケーション活動を織り込んできた。ところが、現代のイニシエーション機能の衰退については、すでに「消費者と成熟をつなぐもの」で書いた通りです。そうした生存危機に対して、人間の本能が、成熟を妨げる消費活動に抗い始めたのです。注意深く、若者達のコミュニケーションに目を凝らしてみると、友チョコに象徴されるように、若者はコミュニケーション能力が低いという従来のイメージとは異なる様相が浮かび上がってきます。


マスメディアは、たいした検証もせず、ニートや引きこもりの量的拡大や教養の貧困化という質的劣化から、若者のコミュニケーション能力の低下を激しく糾弾していますが、現実はそうではありません。ギャル語に代表される、ある特定の年代・集団にしか通用しない言語記号の交換は、ネット・携帯電話という強力なコミュニケーションツールを経由して、歴史上かつてないほどの量的規模で行われています。(最近では、ツイッターなるものまで登場した)ニートや引きこもりや教養の貧困化は、コミュニケショーンを閉ざすのではなく、むしろコミュニケーションを加速させています。事実、彼らはとても饒舌で、おしゃべりが大好きです。仲間内の会話の頻度は、想像を絶するほどです。(1日に送るメール数を聞いたら、郵便局は腰を抜かすでしょう)人間の本能は成熟を求めてやまず、質的な練達はみられないものの、貧弱な言語リソースをフル活用して成熟を果たそうとしているのです。


そうした言語記号の交換から生まれる内輪な集団において、元カレ・元カノのカップリングは、為替相場より目まぐるしく変動しています。昨日までの彼氏が、今日は友達の彼氏なんて例はザラです。その複雑な配置転換は目眩を覚えるほどです。親族の形成手段である結婚の成否がカネの多寡に左右されるようになって久しいなか、カネの全能イデオロギーに犯されていない親族の形成空間は絶滅寸前です。その親族の形成と女の交換が交差する奇跡的な空間で、擬似的ながら本質的なコミュニケーションが行われているといえるでしょう。


ファンタスティックな友チョコは、第3のコミュニケーションである財サービスの交換の原点回帰現象として意味づけできます。生まれながらに消費者としてキャスティングされ、消費活動を通じてしかアイデンティティを基礎づけることができないよう洗脳されてきたのが、平成生まれの彼らです。(もう少し正確に言うと、1980年代以降の経済活動のほとんどがこの「アイデンティティ基礎づけのための消費」に依存するようになった。)彼らもいい加減、等価交換原理に支配された消費活動に飽きてしまったのでしょう。等価交換で得られる快は、良いモノを安く買うことで得られる。つまり、快の上限はコストパフォーマンスで測量可能です。だから、等価交換は、どれほど積み重ねても人は成熟せず、クレヴァーな消費者を成功者として、もてはやされるだけです。しかし、友チョコに表象される贈与活動には、上限がありません。なぜなら、「贈与」とは、「どういう価値があるのかよくわからないものを受け取る行為を意味し、贈与されたものが何を意味するのか、何の役に立つのか、それを知るために、長い時間とさまざまな経験を要するようなもの、そのような贈り物だけが贈与の名に値する」(by内田樹)ため、贈与されたモノの価値を贈与された側が決定するからです。つまり、そこには「私が今使っている価値の度量衡では計測できない価値」が生まれます。友チョコは、これまでのバレンタインに内在した意味を変容させました。チョコの対象が異性に限定されたため交換原理に支配されていたバレンタインを、同性間に拡大することで、贈与活動へと読み替えようとしているのです。贈与された側は、どんなにチープなチョコであっても、そこにはモノやお金の貸し借りでは生まれない感情が生まれます。その感情こそが、「今使っている価値の度量衡では計測できない価値」です。贈与された者は、当然贈与しなければならない(贈与の反対給付)という焦燥感に駆られます。だが、それは感情を含むものでなければなりません。感情は、単なるモノには宿りません。モノに物語が必要となります。その物語を共有できる贈与活動こそが、人を成熟へと導くのです。



しかし、これらのコミュニケーションには致命的な欠陥があります。いや、正確にはコミュニケーションの稼働領域に問題があります。


いしいひさいちのマンガに安下宿共闘会議の諸君が麻雀をするエピソードがあります。全員金がなくて困り果てているときに、中の一人が「そうだ、麻雀をやろう」と言い出す。「麻雀をやると金が儲ると聞いたことがある」「それはよい考えだ」と四人で雀卓を囲んで牌をかき混ぜ始める。延々と牌をかき回し続けるのだが、「どうもさっぱり金がもうからない」と暗い顔になる…というオチですが、このマンガは資本主義の流通過程からは富が生み出されないという、私たちが見落としがちな事実をみごとに描き出しています。富の滲出のためには「外部」が必要なのです。今の例でいえば、潤沢な貨幣をもって「安下宿」世界に降臨し、彼らに豊かに貨幣をばらまいて去ってゆく「まれびと」が登場しない限り、富は発生しません。麻雀は、この「まれびと」からの贈与を「安下宿」世界に取り込み、価値化するための装置であり、麻雀そのものはいかなる富も生み出さないのです。


つまり、何が言いたいのかというと、成熟に必要な「外部」がこれらのコミュニケーションには欠けているのです。3つのコミュニケーション全てが、すでに関係づけられた閉鎖的な集団のなかで行われており、他者との出会いが排除されているのです。いしいひさいちの例で挙げたとおり、それでは富は発生しないし、いかなる富も生み出さず、閉鎖的な集団を一層閉鎖的にし、メールを30分以内に返信しなければ、集団からの排斥運動が起こるような、窒息しそうなほど息苦しい無酸素空間と化してしまうのです。このネットワークから滑り落ちた成れの果てが、不登校です。そして、高密度の、たった1つの共同体にしか所属していないせいで、人格が単一化し、他者に対する適切な振る舞いが欠落するという悪循環に陥っているのです。



言語記号の交換・女の交換・財サービスの交換、それらすべてのコミュニケーション形態に、成熟への胎動がはっきりと聞こえる。だからこそ、「外部」と自由に行き来できるトリックスターの育成が急務なのです。しかし、ファンタジスタと呼ばれるサッカー選手がどれほど稀少かを考えてみればわかるように、はたして育成することができるのかについては疑問符がつきます。そこで、大人達に必要な視点は、トリックスターを杭で打ち付けるような真似をせず、温かく見守るということだと思います。誰も人間を他動的に成熟させることはできない。人間を成熟させるのは自分自身です。そのためには主体の側に「成熟しなければならない」という強い決意が必要なのです。ひとが「私は成熟しなければならない」と思う理由はひとつしかない、それは「成熟しなければ、理解できないことがある」からである。「外部」にあるそうした欲望の対象と彼らの矮小化するコミュニティを、キラーパスを通すように、うまく接続することができれば、成熟はもう手の届く範囲にある。