模擬裁判の帰趨

毎年恒例の模擬裁判が終了しました。ふぅ。


授業に社会とのつながりをビルドインすることで、生徒の学びへの欲望をドライブさせ、主体的な学びを発動させることをミッションとしたのが、模擬裁判を含む私の担当する「社会探究」という授業です。ネタも教材も人選もやり方も、全て試行錯誤の中、駆けずり回って作り上げたものだけに、この授業にかける想いは他の授業の比ではありません。当然常に不安も抱えています。今年の卒業生(昨年度の受講生)に、「この”授業”を通じて人生が変わった」と言われたときは、「先生に出会って人生が変わった」と言われても感じることのなかった望外の幸せを感じ、何ものにも代え難い何かを手に入れることができた気がしました。そして、それは私の仕事に対する最大級の賛辞でした。(もしかしたら、この授業をやるために教師になったのではないかとさえ思う)


さて、今年は、裁判員制度の検証を活発に行う機運が高まっているのか、それともよっぽど記事のネタがないのか、翌日の新聞は模擬裁判で埋め尽くされ、さながらマスコミジャックの態をなしていました。(読売新聞・朝日新聞毎日新聞京都新聞・KBS・市広報課のみなさん、ありがとうございました。)

本年度の模擬裁判は、シナリオが完成した時点(シナリオのプロットは私が作成し、細部を生徒がつめた段階)で、法学リテラシーのある者がみれば明らかな無罪の事件となったので、評議を通じて、転轍を誤ることなく無罪へと導くことができるかという裁判員制度の根幹となる合議制の在り方を検証するというミッションを付加しました。(本来の模擬裁判が持つ競技性は薄れてしまったと思いますが、裁判員制度導入初年度という時局を鑑みた結果こうしました)
評議結果から裁判員制度に内在する問題が浮き彫りになるのではと期待していましたが、結局全班無罪の判決を下しました。ひとまず、合議制の在り方については、及第点をつけることができそうです。ですが、安心したと同時に、少しガッカリしたのが正直な感想です。


ガッカリしたのには理由があります。なぜなら、私は裁判員制度そのものに懐疑的だからです。


まず、裁判員制度が導入されるようになった経緯についてです。最高裁のHPには裁判員制度導入の理由についてこう書いてあります。「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています。」こういうことを最高裁が言い出すということは言い換えれば、「裁判が身近ではなく、わかりにくく、司法に対する国民のみなさんの信頼が低下している」ということが前段になければならない。確かに、検察庁のある幹部が言っているように、「誰からも掣肘を加えられないと、おごりや重大な誤りが生じてしまう。国民は裁判員制度を通じて、司法や法曹をチェックして欲しい」という意見も司法内部にもあることは否定しません。ところが、2000年に最高裁は、「陪審員の判断が不安定で予測可能性に乏しく、高い比率で誤判が生じていることを裏付ける多くの研究結果がある。真相を解明するという機能を構造的に持っていないと言えるのではないか」と、わかりやすさの弊害を指摘し、一層の信頼性の低下を招く制度であると主張している。それどころか、言下に司法そのものの崩壊の可能性さえ匂わせている。だから、この制度改革が裁判所主導で進められたということは考えにくい。
だったら、言い出しっぺは誰か。それは明白です。行きつく先はいつもここです。ずばり、経済界です。バブル経済崩壊による1990年代の深刻な不況を乗り越えるため、経済・金融の国際化をすすめた結果、自己責任とそれに不可欠な情報開示といったグローバル・スタンダードを受け容れざるを得なくなった。規制緩和と民間主導の市場経済確立により、事前の規制が緩和されれば、事後のチェック、救済機関にあたる司法の役割がより重要になります。そこで、経済界は、主として法曹人口の増大と民事訴訟の充実・迅速化を強く要望したのです。結局、経済活動の尻拭いをしろというわけです。経済至上主義にいい加減、愛想がつきそうです。


裁判とは、まず第一に被告人の利益について考えるものではなかったのでしょうか。利益は、明らかに被告人の側から離れていっています。経済的な需要に、市場原理を適用して、供給を増やすという単純なペニーガム法がもたらすであろう厄災についてよく考えてみるべきだとおもいます。


裁判に市民が介入することで、市民が被るであろう被害の第一が、自然状態(byホッブズ)への回帰です。ご存じの通り、裁判員制度の対象は、殺人事件などの凶悪事件だけです。市民感情は刑法条文や判例とかかわりなく「厳罰」を望む傾向があります。政府は、国政の大勢に影響することのない刑事裁判で象徴的に市民に発言権・決定権を付与することで、主権者としての自信を表面的に回復させ、政治的ストレスを発散させようとしているのであれば、好きや嫌いや、やられたらやりかえせ式の実感を裁判にもちこむことになる。それでは法以前の状態への逆戻りです。


かつてトマス・サスは、市民が身に起きるあらゆるトラブルについて、その責任者を訴え、賠償請求をできるような社会では、市民の側に「トラブルを事前に回避するための社会的能力」を育てるという動機づけが失われることを指摘しました。逆説的なことですが、「つねに悪が罰され、正義が勝利する」社会において、市民たちは、目の前で犯罪が行われ、不正が横行しても、それに対して鈍感になる。「正義の社会」では、ただちに犯人は捕縛され、不正は罰されることが確実なのだから、目の前でどれほど残虐な犯罪行為が行われていても、見ている方は別に心が痛まないし、身を挺してそれを阻止しようという気も起らない。なぜなら、ほっとけばいずれ正義が執行されることが確実だからです。
起こりうるトラブルを網羅して、そのすべてに対処できるシステムを作ることと、なるべくトラブルが起きないようなシステムを作ることのどちらがコストがかかるか考えれば誰にでも分ると思うけれど、日本はアメリカに倣って、次第によりハイコストの社会制度にシフトしようとしている。当然、日本の財政状況はハイコストな社会制度の構築を許さない。ただでさえ、「正義の社会」にほど遠い現状で、中途半端な制度変更はさらなる混乱を招くだけです。


結果、万人の万人に対する闘争状態に陥ることは目に見えています。市民は自衛のために、さらなるコストを払わなければなりません。裁判員制度の導入は、「厳罰化」による秩序と倫理の回復を求める政治家や知識人が加担した可能性も考えられますが、秩序の崩壊と倫理の劣化につながりうるという最悪のシナリオは想定していないように思えます。



また、自衛は社会生活においてだけではありません。市民が被るであろう被害の第二が、トラウマです。殺人事件について、私たちがメディア経由で知らされるのは、その全貌のほんの一部にすぎません。けれど、裁判員は調書を閲覧するときに、そのありのままを見せられる。それは「人間がどれほど邪悪で残忍で非理性的になりうるか」ということを間近に知ることです。人間性の暗部に触れることはしばしば人の心に回復不能の傷を残す。というか、それに触れてしまった人にしばしば生涯にわたって回復不能の精神外傷を負わせるものを私たちは「人間性の暗部」と呼んでいます。そのようなものに心理的成熟にばらつきのある市民たちが組織的にさらされてしまう。現在の裁判員制度では、その補償について触れられていない。トラウマを過小評価しているようですが、うつ病が蔓延しているなかで、その観点を見逃しているのは、確信犯としか考えられない。トラウマを抱え込んだ人は、未来への歩みを止めてしまう。ただでさえ、息苦しい世の中なのに、未来のない閉塞的な空間に人は耐えられないだろう。


それとも、こうした厄災を無視しなければならないほど、市民の育成が急務なのだろうか。2001年司法制度改革審議会に「政治改革、行政改革地方分権規制緩和などの経済行動改革の根底に共通して流れているのは、国民一人一人が統治客体意識から脱却し、自律的で社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画し、この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志であろう」とあるように、裁判員制度が市民的な成熟に貢献する一面はあろう。それは、否定しない。しかし、市民の育成のために真っ先に取り組むべきは、司法改革ではなかろう。


「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局〈文明〉というただ一語につきるのであり、〈文明〉はキビス(civis)つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかにしている。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしようとするのである。(・・・) 文明はなによりも共同生活への意志である。」(『大衆の反逆』)


オルテガは、「共同生活への意志」をもつもの、それを市民と定義しています。裁判員裁判で、「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力が育成されるだろうか。むしろ、他者に対する憎悪や不安を通じて、他者を排除し、他者と断絶されるだろう。


「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」


オルテガが「野蛮」と呼ぶ、このような「内側」に向けた過剰な親密感・一体感と「外側」に向けた常軌を逸した排他性・暴力性が混淆した集団心理を、共有させてはならない。今、私達がやるべきことは、司法改革といった小手先の対処療法ではなく、市民の育成と相関関係にあるはずの共同体の再構築であり、カネの全能性から心身を祓い清めることである。これから模擬裁判に求められる役割は、そういったある種の禊なのかもしれない。