消費者と成熟をつなぐもの

プロジェクト8の起源を探ると、日本全体いや先進国全般に蔓延する学力低下が浮かび上がってきます。歯止めのきかない学力低下に、京都府教育委員会は頭を抱え、「こんなときは現場の知恵を活用してみようじゃないか」と、踊る大捜査線好きの誰かがきっと言い出した。でも、困ったことに財政赤字を抱える府に教育予算を多くは望めず、全教育現場に予算を配分することはできない。だったら、「おもしろそうだからコンペ形式にして競争原理を取り入れてみよう」と、これまたビジネス指向の強い誰かが言い出したに違いない。(京都の教育現場は頑張っていますよという対外的なアピールも、もちろん目算に入っている)そして、「学力向上フロンティアコンペ」は始まった(はず)。

底なしの学力低下に、従来のパラダイムでは打つ手がなくなり、藁をもつかむ思いでひねり出した苦肉の策が、「学力向上フロンティアコンペ」だったのでしょう。現場の活性化なしに、教育課題は解決しない、そんなシンプルな結論に至ったのだろうと推論できます。しかしながら、闇雲にバットを振り回してもホームランは打てません。打席に立つには、それなりの準備が必要です。学力低下の場合で言えば、学力低下の背景を理解し(ゲームの流れを読む)、対象となる生徒像を共有し(球を見極める)、高校でできること・やらなければならないこと・求められている役割をしっかりと認識した(己の存在意義を知る)上で、実行する必要があります。以下、私なりのゲームに臨む心構えです。それでは、プレイボールとします。



学力が低下した理由は、はっきりしています。日本社会がカネの全能イデオロギーに洗脳されてしまったからです。言い換えると、国民1人1人の心身に経済合理性という価値基準がずっしりと根付いてしまったということです。当然、教育もその価値基準と無縁ではありません。コンペという発想自体が、何よりも雄弁にその事実を語っています。(教育問題が貧困とセットで語られるのも同様です)大人はまだいいですが、かわいそうなのは子ども達です。子ども達は生まれながらにして消費者なのです。それが学力低下の元凶だと私は考えます。


今の子ども達は、特徴を一言で言ってしまえば、時間軸が非常に短い。というより、時間という軸が立ち上がっていない。短いスパンで次々と投入される新商品に目移りし、移ろいやすいテレビに片時もなくさらされ、携帯電話という同時性が重視された機器を肌身離さないという環境が、そうした人間形成に大きく貢献していることは、火を見るよりも明らかです。学力が低い子に共通している点は、将来の展望を何ら描くことができず、今が楽しければよしという行動原則に基づいて、目先の快楽に反応するということです。彼らは、快・不快に非常に敏感です。だから当然ながら、我慢ができない。室内温度が、少しでも暑かったり、寒かったりしたら、もう集中できません。そうでなくても、50分間の授業に耐えることは容易ではないのが現状です。また、他人を評価する基準は、好きか嫌いかです。自分と異なる価値観に敬意を示すことすらありません。なぜ、私を理解してくれないかと、自分の価値観を貫き通すばかりです。ところがやっかいなことに、その価値観は非常に強固です。「公」という概念すら超越してしまうほどです。授業中の私語は当たり前、町中でもおかまいなしにスカートの下にスエットを穿き、大声でプライベートな話をします。(少し前に、授業より浅田真央のテレビ中継を優先する生徒がいて、かなり驚きました。)そして、チープながら強固な価値観を共有した、傷をなめ合うゆる〜い集団を形成し、自分自身もその網に絡め取られ、友達地獄に陥ることも少なくありません。すべて、”今”の自分をベストと考えること(「信じている」の方が正確かもしれない)とつながっています。だから、自分を変える、つまり成長することを強く拒絶します。その象徴的な日本語が「だるい」と「うざい」です。(快・不快に非常に敏感であることは「きもい」という言葉に象徴されます)めんどうくさいことは極力避ける。だから、身の回りはゴミだらけ、漢字や四則計算など基礎学力が一切定着しない。できるだけ少ない努力で最大の成果を上げることこそが、賢さなのです。将来のために、”今”を犠牲にすることは損なのです。そこで、万能かつ全能な力を発揮するのが、お金です。ブランド物を見せびらかすのも、カネの多寡が、自身の能力の構成要素の主要なものの1つだからです。(だから面倒くさがりの彼らでも、アルバイトはやりたがる)翻って、経済界にしてみれば、理性的な消費者より、馬鹿な消費者の方が好都合です。なおかつ彼らはお金が大好きです。だから、馬鹿は量産され、学力低下は止まらないのです。


鬱憤を晴らすかのように、長々と書いてしまいましたが、彼らの気質は消費者というポジションと不可分の関係にあり、彼らの中に、時間という軸を立ち上げることこそが、教育の(大人の)至上命題なのです。さもなければ、記号化した身体や消費マインドは、身が朽ち果てるまで融解することはないでしょう。


教育が果たすべき義務は、明確です。彼らにイニシエーションの機会を提供することです。民主党の高校無償化政策によって、高校は実質義務教育化されました。だからこそ、高等学校という舞台装置にイニシエーションを構造化するチャンスなのです。エリアーデによると、イニシエーションとは「新生」であり、儀礼的な死と復活を含むものです。経済合理性に支配された価値観を根絶やしにし、教育本来の達成目標である人格の陶冶という価値観を再生させるのです。そこで初めて、志という時間軸が立ち上がるのです。

ところが、戦後日本社会に一番欠けていたのは、イニシエーションです。子どもが大人になる、一個の人格が理想的な形態に向上・成長し、変身・変容していくことについて完全にモデルを喪失し、モデルなき社会で生きざる得なかった。小熊英二によると、全共闘は「日本が発展途上国から先進国に、近代から現代に脱皮する過程において必要とした通過儀礼」であり、全共闘世代が国家規模でイニシエーションを経験した最後の世代となるわけです。オウム真理教の求心力をイニシエーションに帰結した研究者がいる(鎌田東二)ほど、切実に国民はイニシエーションの機会を求めているのです。


卑近な例を挙げると、私自身の場合、2年半のサラリーマン生活がイニシエーションでした。入社してからの半年間は、挨拶から始まり、おじきの仕方、身だしなみ、果ては思考回路まで、徹底的に矯正されました。半年後には、ろくに商品知識もないまま、文字通り社会に放り出され、お客さんに罵倒されることも少なくありませんでした。また、個人的に貯金500万貯めるため(教員資格を取得するため、再度大学に入学する必要があった。2年間の学生生活であっという間になくなってしまった)、まるで修行僧のような禁欲生活を余儀なくされました。学生時代の甘ったれ精神は、捨てざるを得なかった。すると、これまでの頑なでちっぱけな価値観では見えなかった世界が目の前に広がった。新しい人と出会って、新しいことを経験して、自分自身がガラッと変わって、生活空間も交友関係も変化して、目の前の霧が晴れるようにすごく楽しいことが起こるんじゃないかとワクワクしながら毎日を過ごせるようになり、志はより強く、熱いものとなった。


レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』の中の、インディアンの風習について言及した場面でこう言っている。「かなり多くの部族で、個人の社会的な威信は、若者がちょうど思春期に達した時に受けなければならない試練が、どのようなものであったかによって決定される。」イニシエーションが、インディアンの成熟において、いかに重要であるかが端的に示されている。無時間モデルで設計された空間を通して欲望を断絶することで、これまでの価値観を崩壊させ、人間の本性に根ざした価値観を立ち上げる。その経験こそが、成熟の第一歩です。



高校にそのような舞台装置を構造化することが、プロジェクト8の最終到達点であり、究極の学力向上策と私は考えます。ただし、現場や教育委員会がいくら頑張ろうと、それだけでは100%成功しないでしょう。社会、もっと具体的に言えば地域、さらに具体的に言えば大人の、子ども達に対するまなざしこそが、イニシエーションへの動機付けとなり、イニシエーションを機能させるのです。まずは、大人達が変わらなければならない。つまるところ、消費者と成熟をつなぐのは大人の在り方に他ならないのです。




高校におけるイニシエーションのヒントは、儀礼の特性である「何でこんなことをやるのかわからないにもかかわらず、止めることができないもの」にあります。具体的な方策については、プロジェクト8の経過報告を兼ねて、いつかその構想を発表できればと思っています。