プロジェクト8

入試シーズンである。多くの受検生の希望に満ちたまっすぐな視線に、自然と緊張感が高まる。(わずか数ヶ月後に、その目には失望が露わになるが・・・)わんさか群がるこれだけの受検生を目の当たりにすると、本当に少子化って存在するのか、そして存在するのであれば、それは本当に”問題”という接尾語をつける必要があるのだろうか、疑問に感じる。

確かに数値で言えば、20歳以下の人口は減少しているのだろう。現に私の高校でも定数は削減された。しかし、実感としてリアルに少子化を感じている人はどのくらいいるだろうか。相変わらず、お父さん方の愚痴の大半は「最近の若い者といったら云々・・・」だし(残りの半分はお小遣いの少なさへの嘆き)、街に繰り出せば、若者が我がもの顔で闊歩し、ほとんどの店を占拠しているのも若者である。結局のところ、行政やマスメディアが示す数値に踊らされているだけではないだろうか。

少子化とは、要は”ものの見方”の問題である。子どもを定量的に定義してしまえば、1955年をピークに減少の一途をたどっており、確かに少子化である。しかし、広辞苑をみても、国語辞典をみても、どこにもそんな定義は見あたらない。そこにはこう定義されている。「まだ成人していない人、考え方などが幼稚で世間知らずなもの」(『明鏡国語辞典』)重箱の隅をつついて、民法を開くとやっと満20歳を成年と定義しているが、ここでも子どもの定義はない。つまり、本来子どもとは大人の対極に位置する言葉であり、未熟な者を指す言葉なのである。このように、ものの見方を転換するとどうだろう。未熟な者は減っているだろうか、いや、むしろ子どもは増えている。そうなのだ。少子化問題などは存在しない。少子化問題は、それだけの頭数の人間が税金を払い、保険料を払わないと現行の行政システムが維持できないと思っている官僚と、それだけの頭数の消費者と労働者が確保できないと現行のビジネスモデルが維持できないと思っているビジネスマンの脳内だけに存在しており、それ以外の場所には存在しない。現行のシステムを不可疑の前件にして、その上で考えるから人口減は少子化問題に見えるだけである。本当の問題は多子化であり、それにこそ問題という接尾語をつける必要がある由々しき問題なのです。


世相を見渡すと、朝青龍しかり、引きこもりしかり、クレーマーしかり、アンチエイジングしかり、民法に照らし合わせれば立派な成年が、見事なまでの未熟っぷりを披露している。未熟なだけならばまだましだが、「大人になりたくない」という能動的な意志が作用した”若さへの居着き”という心性が、これらには共通している。当然、背景には社会全体の幼児化の進展がある。

端的にいって、朝青龍の問題行動の大半は、駄々っ子のそれと同型であるし、ひきこもりについて言えば、『「本当の私」は「今の私」よりはるかに有能で、公正で、炯眼で、すべての難問は「未来の私」によって解決されるであろうという病的な依存が「私は今まだ子どもで、無力で、無能である」という事実を正当化した』(by内田樹)という病理をもつ幼児化現象である。クレーマーは少しやっかいだが、権利を主張するということは「本来私に帰属するはずのものが不当に奪われている。それを返せ」という”被害者”の立場を先取することである。彼らの言い分の多くは、きわめて理不尽であり、自らが少しの努力を怠ったせいで生じたロスを、全て他人になすりつける。お母さんにしかられて、「誰々ちゃんが悪いんだもん」と泣き叫ぶ幼稚園児達と大差はない。被害をことさら声高に訴えることで利益を得ようとする行為が、成熟した大人の振る舞いから遠くかけ離れたものであるということは了解いただけると思う。最もわかりやすいのは、アンチエイジングである。自明のとおり、加齢への抵抗であり、老いより若さに高いプライオリティを設定した結果生じた現象であり、ここでは、若さは燦々と輝く美の象徴なのである。(若返ったところで、きれいになるとは限らないことに気づいている人は驚くほど少ない)


このように、世の中子どもだらけなのです。見た目が大人の子どもがのさばる現状は、まさに目を覆いたくなる惨状の呈をなしています。しかし、これは子どもだけの問題ではありません。朝青龍問題がその典型ですが、その原因の大部分が子どもを教育できない大人(朝青龍でいうところの親方)にあります。大人達がこの問題に真剣に向き合い、膝を突き合わせて考え行動しなければならない時期はそう遠くないはずです。さもなければ、社会は早晩著しく劣化し、下手をすればコミュニティが軒並み崩壊してしまう可能性さえあります。

大人の要件の1つであるアイデンティティというものは、結局は社会関係のなかでしか作られません。周囲の人間との相互関係を通じて他者からの評価や承認を通じてゆっくりと形成されるものです。結局、自分が誰かということは、どんな人間とどんな関係をもっているかということを通じてしかわかりません。つまり、コミュニティが崩壊するということは、人間関係も崩壊するということであり、子どもをさらに大量発生させることと同義なのです。

目下の急務は、1人1人の大人が「私のような人間ばかりの世界」で暮らしても「平気」であるように、できれば「そうであったらたいへん快適」であるように自己形成し、人間関係を修繕することです。そうした大人達の集まりである共同体が再生されれば、多子化問題はあっという間に解決してしまうだろう。弱者でも自尊感情を維持したまま、楽しく、そのポテンシャルを最大限開花できるように全員で弱者を支援する場となる共同体の再生、それこそが多子化の究極的なソリューションなのです。



過日、教育委員会で開かれた「学力向上フロンティア校企画コンペ」で、私なりのコミュニティ再生の足がかりとなる企画”プロジェクト8”を発表した。その提案の背景には、こんな想いがあったことだけは記しておきたいと思う。次年度のプロジェクト開始が待ち遠しい。