ゼロ年代のトリセツ

最近の生徒はおとなしいと、どこの高校の先生も口をそろえて言います。
教育困難校だろうが、進学校だろうが、事情は同様のようで、どの学校がやんちゃな生徒の受け皿になっているのか躍起になって探してみても、どこにも見当たらないのです。
ふつうやんちゃな生徒は階層化された学校間カーストの低位に位置づけられるのですが、そこにもいない。
どこかの私立高校にいる、もしくは進学をしていないと仮定しても、その数は私立高校のキャパだけは収容しきれるものではありませんし、高校の進学率が低下したという話も聞いたことがありません。
つまり、やんちゃな生徒がおとなしくなったからだと考えるのが妥当です。

ですが、不思議なことでありません。
善悪二元論で人間を語ることができないように、一人の人間の中に善悪は共存しています。
100%の善人がいないように、100%の悪人も存在しません。
一生涯、完全に無垢なまま生き続けられる人間など、この世の中にいるはずがありません。
善悪のグラデーションがあって、その比率はTPOによって変動するものだというのが、僕の長くもないが短いと言うほどでもない人生で学んだ経験則です。※1
つまり、生徒の中で、善悪のバロメーターが善の方向に傾く何かしらの要因があるのです。

その要因を考える前に、高校生を取り巻く環境について整理しておきたい。
まず、今の高校生は人生のほぼすべてを、「失われた20年」に生きている”不況生まれデフレ育ち”であるということです。
デフレ環境のなかで、安くていいものが当たり前な時代を過ごし、次から次へと登場するコミュニケーションツールを使いこなしてきた世代にあたります。
つまり、そもそも景気が良い時代を知らず、安くて良いものやサービスに囲まれてきて、ある意味豊かな時代をすごしたため、日常に不満はない。
むしろ、現状維持できない可能性への不安を抱えている。
それは、目の前にある就職やお金に対する短期的な不安※2と、将来が不安な日本において自分自身もどうなるかわからないという漠然とした長期的な不安※3という終わりなき不安です。
そのような不安な時代を生きていかなければならない今の高校生のマインドは若さゆえのリスクテイクからリスクヘッジ重視へとシフトしているように感じられます。

次に、ゆとり教育世代であるということです。
ゆとり教育がもたらした功罪はさておき、成績評価の基準が相対評価から絶対評価に変わり、競争要素が薄まったということは言えそうです。
競い合う必要がないから、切磋琢磨するよりは仲間の連帯感を大事にしたいという価値観が強くなり、競い合わないことがデフォルト設定になり、「競争よりも協調」を重視される空気を強く感じます。

最大の環境変化は、情報環境でしょう。
現在の情報環境の変化は、人類がこれまでに経験した食料革命、宗教革命、産業革命に匹敵する情報革命と呼ぶに値する地殻変動です。
価値観や行動原理が以前/以後で大転換しているからです。
SNSがインフラ化し、人間関係が切れなくなり、つながりが常時接続になったことで、自らの発信内容が不特定多数の他人の目にさらされるようになり、強い同調圧力が充満する社会が形成されていっています。
他者にどう映るのか常に把握することができるという環境の変化により、自然と見られている意識が身につき、見られている意識により行動が規定されるようになったことで、他者が見ている自分のイメージを想像してそこから逆算した振る舞いをすることが求められるということです。
そのため、あふれる情報のなかから、まわりの正解を探して、そこからあまり外れない言動を選ぶという「正解志向」が強まっています。


このように、長引く不況や将来への不安、教育の変化、情報化社会の急速な進展により、いい大学へ行って、いい車に乗って、結婚して、出世してという、かつてのロールモデルは消失し、社会として目指す方向性が曖昧になり、各人が自己判断で自分の方向性を選ぶ時代になりました。
かつては、大人であったり、組織であったり、社会といった、これまで若者たちの前に歴然と立ちふさがってきた権威が傷ついているのもうなずけます。
先生と呼ばれる職業に就く者であっても、ネットをみればスクロールしきれないほどの不祥事にあふれている。
企業然り公共機関であっても、枚挙にいとまないほど不正のオンパレードです。
権威がはぎ取られたために、一人の人間として若者と対峙したとき、それはかつてほどの威圧感もなく、敵対する存在ですらなくなってきたのではないでしょうか。
かつては権威と戦うことでアイデンティティを確保することが容易でしたが、今では戦うことすらできないのです。
必然的におとなしくなるはずです。
動物園の檻の中のライオンのようなものです。

では、絶対的な尺度をもたない社会の中で、若者はどうやってアイデンティティを形成しているのでしょうか。
それが、”つながり”という言葉に象徴される「仲間」で、今や身近なコミュニティがアイデンティティの源泉なのです。
宗教的信仰は大きくゆらぎ、政治的イデオロギーへの信頼も失墜し、文化的慣習も流動的になり、社会に共通する価値規準は崩壊し、価値観は多様化しているため、自己価値を測る価値規準が見出せません。
「絶対的な価値観」がないせいで、どのような行動を起こせば社会に認められるのかという社会共通の価値観を基盤とした「社会の承認」が不確実なものとなり、コミュニケーションを介した身近にいる他者の直接的な承認の重要性が増しているのです。
社会という大きな存在に縛られる必要はなくなったが、変わって「仲間」「周囲」「コミュニティ」の承認を得るために、気分を察知し、空気を読むことが必要になのです。
要するに、現代は、承認してもらえるかどうかを常に気にしながら生きる「承認不安時代」にあるのです。
この不安定な時代を自分一人の力で生きていくのは大変だから、競争するより協調路線で、まわりの仲間と一緒にうまくやっていくことで生き抜こうとしているのかもしれません。

ですが、仲間も実のところ、もろい。
だから、結局不安が消えることはありません。
最近、アドラー心理学「嫌われる勇気」が流行していますが、承認疲れの裏返しなのではないでしょうか。
嫌われる勇気、つまり承認されない自分を承認するというパラドックスを抱え込んでまで、承認欲求を満たそうとしているのです。
そうまでさせるほど、現代の行動原理は「認められたい」症候群に冒されているのやもしれません。
逆説的ですが、だからこそ高校生は大人しいのです。
本来、他者から承認されるには、行為の互酬性によって生まれる信頼・信用が必要です。
しかし、そんなまどろっこしいことをしなくても、承認される方法が1つだけあるのです。
それは、赤ちゃんです。
赤ちゃんには、存在そのものへの無条件の承認が与えられる。
当たり前です。
そうしなければ生きていけないほどか弱い存在なのですから。
大人しくしていれば無条件の承認が得られた原風景に帰りたがっているのです。
ですが、そんなことできるわけがありません。
社会が立ちゆかなってしまうからです。

そんな心性を抱え込んでいると知ってか知らずか、政府は、承認をより困難にさせるであろう改革を実施しようとしています。
2020年の大学入試改革です。
そこでは、「課題解決に協働できる力」・「自分の考えを表現する力」・「クリエイティブな思考力」を備えた人材を育成することが求められることになっています。
当たり前ですが、選考という形態を取る以上、入試はありのままの自分が承認される場ではありません。
やっかいなことに、こうした力(コンピテンシー)は可視化しにくいのです。
就職活動のようなものです。
面接という形で選考が行われるので、不採用になった就活生は、まるで自己否定されたような錯覚に陥ることがよく指摘され、「就活うつ」という言葉が定着しているほどです。
こうしたコンピテンシーが教室に持ち込まれたらどうなるか。
人間性までもが評価の対象になり、高校生は、評価のガラス張りのなかに放り込まれることになるのです。
となると、当然、生徒はいい子であろうとします。
学校での評価が入試に直結しているのだから、そう振る舞うのはしかたないでしょう。
学校はもはやありのまま自分を受け入れてくれる場所ではなくなったのです。
彼らは評価ではなく、承認されたいだけなのに、そうは問屋が卸さないようです。

承認されない若者はどこへ向かうのでしょうか。
アメリカを見るまでもなく、ナショナリズムの嵐が吹き荒れるでしょう。
日本人であること以外に誇れるモノを持たない人にとって、「日本人だからすばらしい」という価値観は、なんの努力もせずに「自分はすばらしい」と思え、承認される免罪符だからです。
そのきざしは『子ども・若者白書』にすでに表れています。
「自国人であることに誇りをもっている」と答えた日本人の割合は70%で、「自分自身に満足している」と回答した人の割合が日本は46%で参加国で最下位でした。
すでに、日本人であることの誇りが、自分自身への満足を大きく上回っているのです。
つまり、ナショナリズムの条件はすでに揃っています。
そこに承認をめぐる問題がこじれてしまえば、容易に炎上することは想像に難くありません。

同じ調査で、「私の参加により、変えて欲しい社会現象が少し変えられるかもしれない」と答えた割合は30%という結果になっています。
承認は他者から与えられるものですが、社会に関与していなければ、与えようにも与えることができません。
わらわらと仲間同士で群がっているのも、見方を変えれば、どう社会と関わったらよいのかわからないだけなのかもしれません。
というのも、ボランティアやイベントなどに、一昔前では考えられないほど高校生は積極的に参加しています。
いつ形になるかわからない活動よりも、自分がしたことに対する手応えやリアルな実感、見返りを感じられるものに惹かれる志向を持っているようです。
社会のなかで役割を担い、そのことを通じて人に認められたいという欲求を満たす。
他者や社会とつながり、自分の居場所や自分らしさのあり方をしなやかにつくっていく。
我々大人には、社会という目に見えない大きなシステムの前に立ちすくむゼロ年代の若者の根源にある欲求を承認し、荒ぶる若者を世に送り出す義務がある。
若者たちはそうした大人を渇望しているに違いない。


※1「プロレス正義論」参照
※2苦しい家計の中、大学進学率だけは着実に上昇しており、奨学金を利用している大学生の方がマジョリティです。
※3グローバル化と情報化が進んだ結果、国家よりも市場が大きくなり、境界のない世界が生まれたことにより、個人の努力とは無関係に、はるか遠くで会ったこともない人の行為や思惑が僕たちの生活にいきなり死活的な影響をもたらす、不可視で不可知な危機が偏在する世界であることへの不安。